ナマエさんと


こちらのジェイド視点





 オンボロ寮所属のか弱い人間。監督生さん以上に小柄で荒波に簡単に砕けてしまいそうなほど貧弱に見えていた。

 一月ほど前、自ら雇って欲しいと売り込む彼女の姿は監督生さんが話していた「ここで働かせてください」と粘る少女の姿と重なった。働いた経験があるという話に「まぁいいでしょう」とアズールが頷いた時から、僕が指導している。
 働きぶりは経験ありと言うだけあって未経験だった寮生より使えた。メニューや席を間違えそうになることは何度かあったが、それ以上に客をよく見ている部分が評価できた。
 彼女には内緒だったが、使えなければ即切るつもりだったアズールの「ホール以外も覚えてもらいましょうか」という発言により、キッチンの仕事も教えることになった。この僕が。

「次はフルーツサンドを切ってみましょうか」
「はい」

 元気に返事をする彼女には、ここの調理台の高さが合わないようで少しやりにくそうだ。言ってもらえれば踏み台を持ってきてやってもいいけれど、本人が何も言わずに頑張っているのでそのままやってもらう。
 あ、指の跡。しっとりした柔らかい食パンを使っているとはいえ、緊張でもしているのか力加減ができていないようだ。どうにもおぼつかない手付きに、つい手を出してしまう。

「ボロボロになってしまいますよ」
「ぁ……」

 彼女の口からこぼれた声が自分から漏れたのかと思った。なんて柔らかい手なんだろう。温かくもっちりとした肌触りに、パンをカットする感覚が鈍って少しだけパンを潰してしまった。
 ちゃんと指導しながら切って感覚と頭で覚えて貰えるようすべきなのに、口を開けなかった。開けば速くなった心臓がそのまま飛び出てきそうだからだ。いい、匂いがする。体が風邪をひいた時のように熱っている。
 気付けば、ナマエさんから漂ってくるシャンプーかそれとも彼女自身の香りかを堪能するように、前屈みになっている。包丁を握ったままは危ないから離した方がいいだろうに、この触り心地のいい手を離したくはなかった。

「はぁ……いい」

 ついうっかり呟きが漏れてしまい、聞こえてしまったかと彼女を呼ぶも反応がない。

「ナマエさん今のは……あの、ナマエさん」
「ひゃぁい!」
「僕の話は聞いていますか?」
「いっいいえ! わかりません! なにも!」

 彼女の様子に、ふっと安堵の息が漏れた。変に思われなくてよかった。それにしても、彼女の上擦った声に、また心臓が跳ねてしまう。いつも話す声よりトーンの高い声。叫び声とも違う拍子はずれの声が僕の耳に甘く響いた。
 服越しに触れている体からナマエさんの熱が伝わり、臍の辺りからじわじわと熱が腹の下へ降りてくる。ああ。ナマエさんの小さな体。柔らかな手。真下に見える頭も小さいな。それに、さっぱりした甘さのある、いい匂い。
 なんだか少し、体が怠い。

「あの、ジェイドさん。体が、その……」

 ぼんやりしていた意識を下へ向けると、居た堪れなさそうにナマエさんが体をもじもじさせていた。離れて欲しいと言われ無意識に体を押し付けていたことに気付く。離れる時、体が鈍ったように怠かった。高熱に浮かされているような感覚。
 かと思えば、腹に伝わってきていた熱が離れると、さっきまでの今までとは違う高揚感にもう少し浸っていたかったなんて残念に思う。
 もし、あのままナマエさんが止めなかったらどうなっていたのだろう。自分の本能に負け理性を失っていたかもしれない事は少しだけ恐ろしい。

「ホールの仕事はこれまで以上に頑張りますから」

 ナマエさんの「これまで以上」という言質はしっかり取ったと微笑めば、彼女の朗らかな表情が固まる。それを見てまた、笑みが深くなった。
 彼女にはホールに出て笑顔で接客してもらった方が集客はあるだろうことは、火を見るよりも明らかだ。しかし、人手が欲しい時に仕事を頼みたくなる程度には彼女は使い勝手のいい人材なのだ。

「次はドリンクの作り方を覚えていただきましょうか」

 ホールから見えるカウンターでシェイカーを振る姿も客寄せになりそうだ。とはいえ、カウンターの高さが彼女に合うだろうか。キッチンの高さも彼女にとっては今まで使っていた調理台より少し高いらしく、通りで変なところに力が入っていると思った。
 僕には少し低いくらいですが、と調理台に手を付く。ああ、先程はここにナマエさんを自分の体で押し付けていたんだなと柔らかな感触が思い出される。ずくずくと下腹部へ降りていく知らない感覚に咄嗟に手を離した。
 この調子で、まともに彼女へ指導なんかできるのだろうかと、手のひらに爪を食い込ませ明日の自分へ喝をいれた。


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