しあわせを縫うように/前


監督生を思わせるあだ名"小エビちゃん"を使用しています。現代パロディのようでいて人魚や魔法が普通に存在する捏造世界。
後編は妊娠、出産、近親相姦というセンシティブな話になります。苦手な方は幸せな前編で止めておくことをお勧めします。






 夏の暑い日。朝一から続いた本日分の講義が終わり、大学まで迎えにきたフロイドと映画を見に行った。空調の整った館内は暑さで湿った肌をたちまち冷やすも、体の中に溜まった熱はすぐには抜けずに手うちわで扇ぐ。
 リザーブしていたチケットを受け取る間、ドリンクとポップコーンを買ってくれていたフロイドから自分の分のドリンクを受け取ると、すぐに口をつけた。ごくごくと氷で冷えた液体が二人の喉を素通りする。

「やばっ、オレもう半分も飲んじゃった」
「私も。でも映画始まるといつも忘れちゃうから、ちょうどいいかもしれません」
「ナマエちゃん、映画の時だけは集中力凄いよね〜」

 だけ、とわざと強調する言い方。頭一つ分は下にある顔を覗き込むように見下ろしたフロイドは、にやにやと面白い反応が返ってくるのを待っている。

「映画ってちゃんと見てないと伏線とか気付けずに面白さ半減しちゃうじゃないですか」
「あれぇ? 今日見る映画ってそんな話だった〜?」
「……そういう場面、あるかもしれないし。前作も少しそういうところありましたよね」

 揶揄われるまま拗ねてやることもない。分かりきった誘い文句に乗るのは癪なのに、フロイドのからかいからは逃げられずにおかしそうに笑われた。からかう言葉に乗ってもおかしく笑われ、話を逸らそうとしても失敗してしまう。
 こういう言い合いでナマエに勝ち目はほとんど無いが、勝ち負けなど関係ない。仔猫同士が組み合って転げ回るようなじゃれ合いは、簡単に終わる二人のいつものコミュニケーション。
 フロイドという人物相手と対等に話すナマエに、友人たちは「すごいわ」という謎の賞賛を受けたことがあった。初めこそナマエ自身も信じられないくらい近付けていると思っていたが、それも長く続けば当たり前になる。

 一番大きなサイズのポップコーンを腕に抱えて歩くフロイドの前を席を探しながら歩く。一番後ろの席は入り口から近い。いつも決まった指定席のごと、迷う事なく備え付けのドリンクホルダーへジュースを降ろした。
 映画が始まるとそれまでひそひそ話していた二人は静かに前を向く。毎度おなじみのキャラクターが上映中の注意事項を喋り、宣伝映像が流れるのをぼんやり眺めた。
 二人が見ているのはホラー映画。ゾンビなんかが出てきて武装した男女が助け合い、仲間の裏切りに遭いながらもゾンビに占領された洋館を脱出する話。
 びくびく怯えていたら観終わってからフロイドに揶揄われるだろうが、ナマエはアクションのかっこよさやストーリーを楽しみ、ホラー映画としての恐怖はほとんど感じていない。
 怖いというよりは気持ち悪い方が強いかと思うも、その気持ち悪さすらほとんど感じていなさそうなところも好印象だった。海の中じゃグロなんか普通だし、とフロイドはポップコーンを掴んで口に放った。



 ゲームとは完全に別物な映画が終わり、氷が溶け香りも飛んでる元ウーロン茶を勿体無いからと、ナマエは啜る。そんな物よりどこかの店に入ればいいよと、その手からジュースを奪い空になったポップコーンの容器と一緒に出口で返却した。
 茹だる暑さに足速にナマエの手を引いて歩く。一人で急ぐ時よりゆっくりな足取りで何度か二人で来たことのあるカフェに入った。ふうっと大きく息を吸った彼女は店内の涼しさに少し肩を震わせる。

「すいませ〜ん、そこの席座りたいんだけど」

 フロイドが指差したのは、席を立ったばかりの客の食器が置かれたテーブルだった。声をかけられた店員は、手早く片付けると布巾で綺麗に拭ってから「お待たせ致しました」と二人を案内した。
 他にも二、三席ほど空いている店内は混み合っている。ナマエは、準備してくれた店員に感謝を述べてから、そんなに急がせなくたっていいのにと言った。

「ここに座りたい気分だったの。いいじゃん、ちょうど手が空いたところみたいだし」

 フロイドは在学中に起業した友人の店で社員として働いている。今でこそ現場に出て飲食店の店員として働くことは少なくなったが、飲食店の空気を読み流れを把握し人に指示を出していた。そうしたこれまでの経験から分かるのだろう。しかしナマエは店員を観察しても少しも分からなかったし、あんまり見ていると用でもあるのかと店員が伺いに来てしまうからやめた。
 前に一度だけフロイドのように何か気付くんじゃないかと見ていて他の店員に声をかけられたことがあった。その時は慌てるナマエを他所にフロイドがテキトーに注文をし、挙動不審な人と思われる程度で済んだ。フロイドには呆れながら笑われたが。

「あ……」
「ん?」

 注文が終わった頃にある事に気付いたナマエは、向かいに座ってスマホをいじるフロイドを真っ直ぐ見て笑った。

「ありがとう、フロイドさん」
「ふふっ、よかった」

 穏やかに笑むフロイドを見て笑みを深くする。彼がこの席を指定した理由がようやく分かった。この時期の冷房が効いた店内ではよくあることなのに、今は露出した腕に空調の冷気がほとんど当たっていない。
 ナマエが店内に入って少しだけ体が震えたのに気づいて席を指定してくれたのだ。自分のための気遣いが嬉しい。それと、数回来ただけなのに、風の当たりにくい場所が分かってしまうフロイドに感心する。これが自分にのみ発動する気遣いだと気付いた時から、ナマエは言い表せない嬉しさと恥ずかしさでこの上ない幸せを感じていた。



 *



「ねぇナマエちゃん、ちょっと呼び捨てで呼んでみて」
「えっと……フロイド、くん」
「あはっ、呼べねぇの?」

 あっけらかんとした顔のフロイドに彼女は「うん」と俯き加減で答えた。

「ずっとフロイド先輩って呼んでてやっと"先輩"から"さん"に慣れてきたのに、呼び捨ては……ちょっと勇気いる」
「あ、そう? じゃあ、フロイドくんでもいいよ。そんで次は呼び捨てね」

 呼び方に特別なこだわりのないナマエは、どうして段階を踏んでまで呼び捨てにして欲しいのだろうと疑問に思っている。



 まだ学生だった頃の話だ。フロイドから呼ばれていた『小エビちゃん』というあだ名。フロイドが命名し、フロイドしか呼んでいなかったあだ名の由来は『初対面の反応が小さなエビみたいだった』から。
 そう呼びたいのならご自由にと何も思っていなかったナマエも、少しずつフロイドに気を許せるようになるにつれ「小エビちゃん」と呼ばれる事が嬉しかった。もし、他の人が自分より先に『ビクッとした反応』をしたとしたら自分は小エビではなかったかもしれない。
 フロイドのつけたあだ名に愛着が湧き、呼ばれるたびに喜びを感じ、同時にもう呼ばれなくなってしまうことが寂しかったナマエは、最初に呼び方が変わってからしばらく経った頃に思い切って聞いてみた。

 「どうして"小エビちゃん"って呼んでくれないんですか?」
 「なに? また小エビちゃんに戻りてーの?」

 戻りたいとはどういうことかが分からない。フロイドにしか呼ばれなかった特別な名前では、もう呼んでくれないのか。などと切なくなった。
 縋り付くようなナマエの視線に、フロイドは「あ〜〜〜」と後頭部を軽く掻きむしると、らしくない歯切れの悪い口調と言った。

 「ナマエちゃんが……オレの特別な人だから。自然に呼び方が変わっただけ、なんだけど」

 言いにくそうに視線も合わせず放たれた言葉に、ナマエはびっくりして顔を上げた。今現在、付き合ってから二年は経っている。呼び方が変わるまでの一年間は何だったんだろうかと、ナマエはショックでフリーズしたまま視線の合わないフロイドから顔を逸らせない。

「え、なに? 何でそんな顔してんの」

 チラッとナマエに視線をやったフロイドの目が見開き、ナマエの瞬きを忘れたような目と合う。

「特別って……その前までは違かったんですか? 付き合おうって私に言った時は、遊びだったんですか?」

 ナマエにとって『小エビちゃん』は特別な呼び方だった。ずっと気になっていた人と両想いだったと知った時の感情が湧き上がる感覚は、私だけが感じていたことだったのだろうか。じんわり滲んでいた瞳に怪訝気味の顔が揺れた。

「何言ってんの? オレが何とも思ってないやつにあだ名つけると思う?」
「フロイドさんのこと何でも分かるわけじゃないし」
「たまたま行き合う魚程度の関係であだ名なんかつけねぇよ」
「言ってる意味がよく分かんない」

 フロイドの例え話はいつもよく分からない。涙で潤んだ瞳は乾き、下からフロイドを睨め付ける。その姿がかわいく見えフロイドの昂り始めた気持ちが鎮まり、固く握られ白くなった拳にそっと自分の手を重ねた。

「オレは直感であだ名つけるけど、その後もあだ名で呼び続けるのはごく一部。なんとも思ってないやつにつけたあだ名なんてすぐ忘れちゃう。それと、コイビトになっても小エビちゃんって呼び続けてたのは……あのね、予防線」
「予防線?」

 付き合ってからの予防線てなんだろうか。さっぱり分からないナマエは、訝しげな視線をフロイドに送り続ける。

「不安、だったんだよねぇ……情けな」

 フロイドは飽きっぽい。好きな事でも些細なことで興味を無くしてしまうこともある。それを自分でもわかっているから、他人と深い付き合いをするのに慎重になっていた。
 ナマエとの関係もそうだ。人としての興味から好意に変わり、それが男女間の恋であると自覚したのは高校生の時。他人を牽制し、自分より過ごす時間の多いクラスメイトに嫉妬し放課後を独占したこともあった。
 『小エビちゃんはオレのだから』そう言いながら一歩踏み出せないフロイドは『好き』という言葉を『仲良し』に変え、大好きな小エビちゃんの隣に居座り続けた。
 友人関係の男女が手を繋ぎ、親愛の証だと頬にキスまでした。周囲への牽制と溜まり続ける欲の緩和。フロイドのことが好きだから何の抵抗もしないし、勘違いされても否定もしない。それに気付いたフロイドが一歩、今の自分達の関係を明確にするべく踏み出したのは高校を卒業する年。

 ――オレさ、小エビちゃんのことオトモダチじゃなくて女の子として好きだったんだよね。ずっと。

 フロイドが卒業して離れてしまう事でどこか居た堪れない気でいたナマエの感情がすとんと着地し、同時に湧き立つ嬉しさで涙が溢れた。己と向き合い相手の気持ちと向き合い、差し出された手をナマエはしっかり握りしめ恋人という関係で歩き出した。
 これからの人生を彼女の隣で生きることを決めていたフロイドは、とっくにナマエのことを"小エビ"だなんて思ってなかった。それでも呼び方をなかなか変えられなかったのは、互いの気持ちの強さに差がある気がしたから。

 ――フロイドさんの部屋なのに、私の物がちょっとずつ増えていくの……なんだか、いいですね。

 そう言ってはにかむ姿にフロイドは堪らずナマエを抱きしめた。ナマエも大学に進学し、互いの家を行き来するようなった今、何をためらう必要があるのだろうか。オレの小エビはこんなにも自分といることに幸福を感じているじゃないか。くすぐられた感情が爆発し、身体中を駆け巡る快楽に抱きしめる腕に力が入る。
 一生、ナマエを大切にしていこう。そう心に決めた。

 ――ナマエちゃん。大好き。

 この時から呼び方が変わり、フロイドから「オレが臆病だっただけ。ナマエちゃんは付き合う前からオレの特別だったよ」と聞かされたナマエも、それを受け入れた。
 そして同時にナマエにも呼び方を変えてもらいたくなった。「オレもう、ナマエの先輩じゃねーし。もっと違う呼び方されてーなー」と、何かを期待するような目で見てくる恋人。それに対し「"フロイドさん"で、勘弁してください」と、困ったように笑う彼女の姿にフロイドはまた一歩前に進んだ気持ちで胸が温かくなった。



 そして今、再び名前の呼び方を変えるよう願われている。どうしてそんなに呼び方、呼ばれ方にこだわるのかは分からない。

「呼び捨てじゃなきゃダメなの?」
「ダメじゃねーけど、ナマエちゃんと対等な関係でいたいからさ」
「私も割と敬語取れてきてるし……このままでも十分じゃない?」

 う〜ん、と唸ったフロイドが横目で彼女を見る。そっと目を閉じ、そしてナマエを真っ直ぐ見つめ口を開いた。

「タメで呼んだ方が距離が縮まる気、しない?」







 名前の呼び方を変えることで、壁を取り払い互いの距離を近くしたい。そういう意図があったのだと知ったナマエは、何も考えてなかった自分を少し恥じながらフロイドと今以上に親密になるため、対等な関係になるため意識して呼び方から変えていった。
 フロイドとの間にある薄い膜のような壁を意識的に取り払い続け、出張で会えない間もメッセージや電話でやりとりをし信頼というものが二人の間に生まれていった。けれど当然、寂しい気持ち、会いたいという気持ちは強く久々に会った日の夜は、お互い離れず昼ごろまでくっついていることも多い。
 今日も例外ではなかった。

「ねぇ、ナマエ。夏の休暇にさ、どっか泊まり行かね?」
「どっかって、どこ?」

 太陽も高く昇ったというのに、昨夜の情事の痕跡を残すベッドで脚を絡ませ合いながら予定を立てる。フロイドは「海が見えるとこ」なんて言い出しっぺのくせにアバウトなことを言った。
 あまりのテキトーさに「え〜〜」といつものように笑いながら、あ、と何かを思い出しスマホで画像を検索しフロイドへ見せる。

「ここはどうかな? 『黎明の国のサンドリニ』って言われてるところなんだけど!」
「ここホテルだよね〜リゾートホテル」
「そう! 海も見えるし、綺麗だし、国外に行くより近いし」

 詳しく検索するナマエの頬をとろんとした顔でフロイドがつつく。思い付きの発言に真剣に向き合い一緒に出掛けようとしてくれるのが嬉しい。ちょっとでも考える仕草をしていれば、前までの自分は「やっぱやめた〜」と誤魔化していただろう軽い提案。でも本気の提案。
 この子はどこまでもオレに向き合ってくれる最高の人だと、くすぐったくなる感覚を誤魔化すように乱れた前髪を直す。そして、ナマエの頬にかかるサイドの髪を耳にかけてやると長さが足りずにするっと落ちた。
 柔らかい髪だなぁと思いながら、左手に持たれているスマホを取り上げシーツの上にポンと置くと、フリーになった手をきゅっと握る。「あ、もう」という呟きを無視し、自分より白い肌してるなぁなんて思いながらフロイドはにぎにぎと柔らかな感触を楽しんだ。

「フロイドも一緒に調べてよ」
「オレ今忙しい〜」
「どこが……もう」

 諦めてホテルや周辺の施設を調べるナマエの手の感触を味わいながら手のひらや指で、ふにふにと押し指先までスススっと撫でる。まるでマッサージでもされてるような感覚にナマエはむず痒さを感じながらも身を委ねた。



 ――それから三ヶ月後。

 夏の休暇で訪れたサンドリニ島によく似た風景、建物を楽しめるホテル。他の観光客に紛れながら白い建物に青空のような屋根の再現度の高さに感動する。帽子が海風に攫われそうになり、すんでのところで捕まえ楽しそうに笑う姿にフロイドも声を出して笑った。
 気温は高いながらも海風が心地いい。海がよく見えるホテル内のカフェテラスで、フロイドはブルーラグーン・ソーダをナマエはアクアマリンをノンアルコールで注文した。白いラウンドテーブルにグラスの青が映り、水面のような模様を描いている。
 フロイドは、海にいい思い出でもあるのか、眩しそうに目を細めながら懐かしむような顔で海を眺める。頬杖をついた指の先で三連のピアスがキラリと揺れた。ナマエはテーブルの端に伏せていたスマホを手に取り、カシャリ。画面の中のフロイドがうっとりした目でナマエを見た。

「なぁに撮ってんの?」

 画面の向こうに思えた光景が現実に戻り、ナマエは笑いながら写真に収めたフロイドを見せつける。ドキリとした。一瞬、表情が抜け落ちた顔を見た気がしたが、視線を落とすと今度はフロイドがスマホの画面を向けてくる。
 そこには、朱色に染まる空と反射する海を眺めるナマエの姿。緩やかな海風に舞う毛先が夕陽に透けながらなびいている。海浜公園の側にある遊園地に行った時の写真だった。
 ナマエは慌てた。知らないうちに撮られていたからではない。画面の中のカメラを見ていない全く気取らず夕焼けを見ている人物が、自分とは思えないほどの光景。

「キレーでしょ」

 口元から白い歯が覗く。鋭く尖っている歯に最初こそ驚いたものの今ではチャームポイントとさえ思う。悪戯っぽく笑う口元と甘くとろけた目元がナマエの頬を朱に染めた。きっと撮影の腕がいいせいだと、照れてしまう自分に言い聞かせながら冷たいグラスに口を付けた。



 日常と隔絶された気分になれる白を基調とした部屋。海が一望できるベッドの上、朝の微睡に浸りながら隣にいるはずのフロイドを探した。クイーンサイズのベッドの中、ぱたん、ぱたんと手を伸ばせど冷たいシーツを掴むばかりで指先にすら触れない。
 名前を呼びながら薄ら目を開ければ、あまりの眩しさに目がくらむ。どうしてこんなに眩しいの。体を起こしペタリと座ったまま重たい瞼を擦った。

「フロイド……?」
「おはよー」
「もう起きてたんだ? 早いね……」

 ベッド側にある脚が伸ばせる大きなソファを広々と使ったフロイドが、スマホから顔を上げ眠気目のナマエに微笑んだ。ふあぁと少し大きめのあくびをする彼女に近付き手を取る。

「顔洗っちゃいな、朝ご飯行こうよ。オレ、腹減っちゃった」
「うん……あ、もうこんな時間なんだね」
「間に合うから、ゆっくり準備しな」

 ベッドからナマエを抱き下ろし、互いの両頬にキスをすると彼女は慌しく洗面台に向かった。フロイドは後ろ姿を目で追いかけ、しばらく洗面台の方を見つめソファに戻る。その瞬間、素っ頓狂な声が背中に届いた。

「んえ!? わ、わ! ゆっゆび! 指に!!」

 絶叫する声とは対照的によたよたと力が抜けたような足取りでナマエが戻って来る。「どうしたの?」と笑うフロイドに、ヘアバンドで前髪をよけた少し間抜けで可愛らしい格好のナマエが瞳を潤ませた。そして、倒れ込むように広い胸に飛び込みシャツの背中をギュウっと握る。

「フロイド……ねぇ、これって、なに? どういうこと?」
「ん? これって?」

 声が震えるナマエに対し弾むような声音のフロイド。胸に埋めていた顔をあげると、したり顔と目が合った。胸の中で一気に開花した桜のような感情が喉奥にまで込み上げて来る。
 ゆっくりと体を離し、シャツを掴んでいた手を下ろす。そして、またゆっくりと左手を上げ手の甲を向けると一面ガラス張りの窓から差し込む日光にキラリと輝いた。

「この指輪……ねぇ、フロイド。これ、そういうことで、いいの?」
「うん、ナマエ。オレの一番大好きな人。これからもずっと、オレと一緒に生きてくれますか」

 優しく握られた左手。その薬指に輝くプラチナに愛を込め唇を落とす。喉の奥の声帯が震える。ナマエは、すんと鼻を啜ってから「よろしくお願いします」と返事をした。瞬間、彼女を力強く持ち上げたフロイドが背中からベッドに倒れ込む。
 体を包み込むような感触のマットレスは、フロイドの背中を優しく受け止め抱きしめられた彼女は、ただ驚くばかり。しっかり体を包む長い腕と広い胸板に挟まれ、動けずに体を預けた。まだ放心が抜け切らない。
 頬に感じる心音が僅かに速い気がして自分の鼓動も速くなっていたことに気が付く。頭を上に向けると体を預けていた胸が大きく盛り上がった。白い天井を仰いだまま「よかった」という声が大量に吐き出される息と共に吐き出される。

 体を起こせば解かれる腕をくぐり、横たわる体の上を這い上る。目線を合わせ数秒、ナマエは涙で濡れた唇でフロイドの唇に触れた。「とっても、嬉しい」つぶやきの半分はフロイドの唇に飲み込まれ、繰り返されるキスの応酬に白のシャツがシーツと一緒に乱れる。
 体を寄せ合いながら交わされるキスは次第に深くなり、フロイドの指先からヘアバンドが落ちるのを見ても躊躇ったのはほんの一瞬。ナマエは背中に回した腕に力を込め、押し付けるように顔を胸に沈めた。
 こんな格好で恥ずかしい。くぐもった声にフロイドは笑いながら「オレはサプライズ成功してすっげー嬉しいけど」と、柔らかな髪を耳にかけたり弄ぶ。やり直す。拗ねたような、いじけたようなフロイドが可愛いと思う言い方で、ナマエは言った。

「今度は私がフロイドにプロポーズする!」

 悔しそうに眉根を寄せ、怒ったように口元がふっくら引き結ばれる。そのプロポーズに何の意味があんだよと思いながら、片側の頬が赤くなってるのが可愛くて指先でなぞった。
 冗談だと思われていると勘違いしたナマエが「本気だから」と再度宣言すれば、フロイドはニヤリと挑戦的に笑う。

「ちゃんと成功させろよ」

 全く無意味な逆プロポーズでフロイドを驚かせるのに挑戦することになったナマエ。オレの番は変なこと思いつくよなぁと愉快に思いながら、いつその時がくるのかと胸を躍らせた。自ら言い出したことなのに引けなくなり、ぎこちなく頷く様も可愛くてしょうがない。

「早く顔洗いな、時間ないんじゃねーえ?」
「〜〜もう!」

 なんて甘やかで清々しい朝だろうか。出会ってから六年、付き合ってから三年目の夏の終わり。二人は晴れて結婚の約束をした。
 未だ己の全てを話していない男と、何も知らず純粋に男を愛し喜ぶ女。結婚してからの二人の生活は如何様になるのか。幸福の絶頂にいる二人には想像もし得ないだろう。


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