浴室のドアが静かに開き白い湯気が漏れる。きちんと乾かしてもらっても寝て起きるとめんどくさい寝癖がついてしまう。目覚まし代わりのシャワーを浴び、歯磨きめんどくさいなぁと思いながらシャコシャコと歯ブラシを動かした。
昨日は恋人の名前と一緒にご飯を食べてお風呂に入って髪を乾かしてもらって一緒のベッドで寝た。予定のあった凪は疲れ切って眠っている名前をベッドに残し、一人で身支度を進めていた。
髪は外走ってる間に乾くからなぁと思いながら洗面台をぼんやり眺めていると、とんっと背中にやさしい衝撃。口の中の泡をぺっと吐き出して洗面鏡越しに(俺の体で見えないけど)問いかけた。
「なに? かわいいね」
「なんで起こしてくれないの」
拗ねたような言葉はパーカー越しのこもった声色で妙なかわいさがある。ぎゅうっと背中から回された両腕は胸の下でかろうじてクロスしていた。
名前のためを思って寝かしててあげたというのになんで不機嫌になるのか。凪には不本意な文句であった。抱きつく名前をそのままに口の中を何回か濯いだ。
起こしたって「凪くんのせいで体痛いんだけど」って言うくせに。それでも、どっちの反応されても“かわいいな”て思ってしまうのは、惚れた弱味っていうやつなのかもしれない。
「俺、今日は絶対に遅刻するなって言われてるんだよね。さすがにこれ以上言われるのはめんどくさい」
「……知ってるし」
頭をガシガシと拭いてる最中でも、全く離そうとしない彼女をよいしょと抱き上げてベッドルームへと運ぶ。この子こんなに簡単に持ち上げられちゃって大丈夫なのかな。簡単に連れ去られそうで心配。そうならないように俺が気を付けてやんないと。
ベッドにそっとおろしてやれば、ぐいっと首に回された腕に引き寄せられる。え、どうすればいいの。ベッドに倒れ込んだ名前の上に覆い被さるしかなかった。
「私が起きられなかったら何も言わずに出かけてた?」
「たぶん…?」
「凪くんは私の顔を見ていくの?」
「そうだね」
なんなら寝てる君にキスしてから行くけど。と心の中で言う。当然、今朝も気持ちよさそうに寝ている名前がかわいくて触れるだけのキスをしたが、この感じだと気付いてないだろう。言うつもりもないけど。
「凪くんだけずるい」
「なにが」
ベッドに仰向けになる名前が凪を咎めるように見ていた視線をちょっとだけ逸らした。
「目が覚めた時に凪くんに会えないの……寂しい」
凪の心臓がぎゅんって鳴った。漫画みたいな効果音ってマジで現実に起こったらそういう言葉になるんだなと、実感する。
なんでこんなにかわいいの、と凪をベッドに引き倒した名前を見下ろしこの後の予定なんかどうでもよくなった。
「え、な…凪くん?」
「ん?」
「ん? じゃなくて、手!」
毎度怒られんのそろそろ嫌になって来たし、うるさいし、小言言われるのも面倒だから真面目に練習行こうと思っていたけれど、やめた。この罪なかわいさに抗える俺は持ち合わせてない。と名前の温もりに手を這わす。
目の前のかわいい生き物を堪能できるなら遅刻して怒られても少しも面倒臭くない。乱れた寝巻きの隙間から手を差し入れながら名前の口を塞いでいると、無遠慮なインターホンが鳴った。また鳴って何度も鳴る。
「御影くんじゃない?」
「はぁ〜〜〜」
枕元にあったスマホを引き寄せインターホンに繋いで応答すると、そこには堂々とした佇まいの玲王がいた。
「凪〜? 今日という今日はちゃんと練習来いって言ったろ?」
「あーうん、行くよ。行くけど、ちょっと用事ができちゃって」
「……一応聞いてやるよ、その用事って何?」
「賞味期限のあるものをいただこうかなと」
「わけわかんねーこと言ってんじゃねーよ、どうせ彼女だろ?」
いや、このかわいさは今しかないかわいさだから。今しか食べられないから。脳内でいろいろな言い訳が駆け巡る。めんどくさくてため息をつきそうになった凪の口にかわいい指が押し当てられた。
「御影くん、ごめんね! すぐ用意するから、あと三分だけ待って」
「おー頼んだよ、〇〇さん」
切られたインターホン。凪の下から抜け出そうとする名前。凪の意思を丸無視で会話した二人。気に入らない。と剣呑な空気を纏わせる。
「寂しかったんじゃないの?」
ベッドから降りようとする名前を後ろから抱きしめた。出かける前に凪の顔が見られたから自分は満足ってこと?かわいいこと言って俺をその気にさせておいて自分勝手じゃない?
凪の頭の中には名前への文句の言葉がぐるぐるととぐろを巻く。言うつもりのない言葉に凪はやっぱりこのまま強行するかなと不穏なことが浮かんだ。
「出かける前に顔を見ていってらっしゃいって言いたい。ので、明日はちゃんと起こしてくれる?」
「どういうこと」
「夜に、いっぱいいちゃいちゃしよって、こと…です」
尻すぼみになる言葉。絶対に照れた顔してると思って覗き込めば凪が思ってた数倍はかわいくてマジでこんなにかわいいのを放って練習行かなきゃならないとか、なんなんだよって思った。
てか、ちゃんと起こさなきゃ起きれないくらいにしていいってことで間違いないよな。と考えを改め名前に手伝ってもらいながら急いで支度をした。
「じゃ、いってくるね」
「いってらっしゃい」
はにかむように笑った顔に癒されながらジャスト三分で腕時計を見てた玲王の前に立つ。
「体内時計すげーな」
「まあね、早く行こう、そんで早く終わらせよう」
「ははっ、マジお前の彼女すげーわ」
玲王がもし凪の彼女の言動まで予測して想像してたとしても文句はなかった。だって自分以上に彼女の解像度がいいはずないという自信だ。まあ、他の男が自分の彼女で何か想像してたとしたらちょっと記憶飛ばそうとするだろうけれど。
「早く帰りたーい」
「まだ家出て一分だろ?」
笑いながら車に乗り込む玲王に続く。座って早々スマホを出しデイリーをこなしていく凪。
(あーあ、惚れるってめんどくさい。めんどくさいけど、好きって感情は割と心地いいから悪くないね)