この手を離さない

 麦わらの一味が旅の途中に立ち寄った島は、観光業に力を入れているようだった。女性なら誰もが目移りするブティックの数々、芳しい香りが鼻先を捉えてやまない飲食店街、レジャー施設も立ち並び、老若男女入り混じった賑やかな声が至る所から上がっていた。
 だがここは。アオイの前に聳え立つこの建物からは、そんな陽気でファンキーな声色は一抹も聞こえない。響き渡るは悲鳴、今にも死に絶えそうな断末魔――
 なぜ。なぜ。問い掛けを続ける。震える脚を堪えるので精一杯だった。

「おい。次お前だぞ」

 隣にいたサンジに肩を小突かれ、ハッと意識を取り戻す。
 視点を背景から目の前に合わせれば、今となっては死神にすら見える麗しい美女が、死刑宣告の紙を持って妖しげに微笑んでいた。その後ろで今にも召されそうなトリオと目が合い、互いの命はこれまでかと天啓を受けた気がした。

「ふふ、大丈夫よアオイ。これはペア決めのくじだから。そんなに怖がらないで」
「さっさと引けよ。これ済ませねェとルフィがまた暴れるぞ」

 うんざりと言葉を放つゾロを横目で睨みつけると、アオイは少し気を持ち直して背筋を伸ばし、ゾロの横で餌を待つ犬のように興奮しているルフィに向きあった。

「なぁ、船長」
「なんだ、アオイ!」
「俺さ、こういう心臓に負担かかるようなやつ? ダメなんだよ」
「お化け屋敷だろ? 何で心臓に負担がかかるんだ」
「またてめーはそういう核心を……!」

 往生際の悪いアオイを隣で見ていたサンジは、ハァとため息を吐くなり、緩く腕まくりしたその手を伸ばして、ロビンの手元からくじを一枚、ピッと引いた。

「ほら」
「あぁどうもありがとう……ってなるかー! なに勝手に人のくじ引いてんだ、てめー!」
「てめェがそのままだと今日の予定が終わらねェんだよ! 買い出しにだって行かねーとなんねェんだから、お化け屋敷なんざ早いとこ済ませるぞ」
「何だってわざわざ全員で……!」

 食ってかかるが、引かれたくじはもう戻せない。ロビンは既にフランキーにくじを渡しているし、それで最後なのだ。

「ニシシ! アオイ、もしかして怖いのか?」
「ち、ちげーし! 言っとくけどな、俺お化け屋敷はドクターストップかかってっから!」
「なに!? ほんとか、チョッパー!」
「それは嘘だぞルフィ!」
「チョッパーお前、裏切り者っ!」
「どっちがだよアオイー!」
「く、とにかく俺は医者のみならず止められてっから! お母さんにも止められてっから!」
「……さて、全員に渡ったわね。みんな一斉に開くわよ」
「無視したァーー!」
「ニコ・ロビン、さすが無慈悲だぜ……」

 呟くフランキーをも視界に入れないロビンは、常であれば女神であるはずなのに。
 しかしその口から下された言葉は、くじを開くだなんて言うのは。アオイにとってペアなんぞ、三途の川の船渡しが誰かというそれだけである。

「言っておくけどね、ルフィ! 私の相手はアオイ、ウソップ、チョッパー以外じゃないと許さないわよ!」
「んナミすぁ〜ん! 君を守るのはおれの役目、そうそれは前世からの決まりごと……! きっとくじという名の運命がおれと君を引き合わせてくれるに違いない!」
「いいかみんな、せぇので見るぞ! せーの!」

 (あーもう! どうにでもなれ!)

 船長の声に合わせ、恐る恐るくじを開く。そこには青色のクレヨンで丸が描かれていて、アオイは一瞬きょとんとした。

「ん? これって色? 記号?」
「色よ、アオイ。同じ色どうしで中に入ってね」
「赤は誰!? 私を守りなさいよ何があっても!」
「お、おれは緑だ!」
「おれは黄色……ってことは、ここ3人は被ってねェんだな?」

 良かった〜と安堵の涙を流すトリオの言葉に、アオイもホッと胸を撫で下ろした。その喜びを噛み締めてだけれど冷静に、アオイはピロリと紙を掲げる。

「俺は青。これでお前の望み通りだな、ナミ」

 言葉を受けたナミは、バッと頭を振りかぶるとそこに確かな青を確認して、手を挙げて喜んだ。

「やったぁ! でかしたわサンジくん!」
「え? あ、そうか。コックが俺の分まで引いたんだったか……って、コック?」

 喜びに沸くその場とは対照的に――
 ナミに褒められ喜ぶ筈のサンジが、なぜか蹲っている。はてと首を傾げて、アオイは彼の手元の紙を取り上げた。

(さては赤じゃなくてへこんでんだな……)

 カサリと開けば、見覚えのある、青。
 暫し、瞬きを忘れた。

「ニシシ! じゃあそれぞれ出発すっぞ!」

 なかなか立ち直りそうにないサンジの後頭部をぼんやりと見つめて、アオイは天を仰いだのだった。


*****


「おい、次俺たちみたいだ」
「わぁってるよ」
「……俺と一緒になったのは、お前の引いたくじのせいだからな。俺のせいじゃないからな」
「……それも分かってる。くそ、だから文句言ってねェだろうが。自分自身に怒りは迸るがな!」
「あ、そ」

 あのあと、フランキーの紙が赤色だったことを知ったサンジの打ち拉がれた姿と言ったら! 彼の立ち直りに時間がかかったせいで最後の出発となったアオイは呆れのため息を吐きながら、骸骨がぶら下がるおどろおどろしい扉を見上げた。案内の看板を見れば、全徒歩コースでそれなりに時間もかかるらしい。仕掛けに関してのネタバレはさすがにないが、この建物の規模とクオリティからして、参加者を全力で恐怖のどん底につき落とそうとしているのだろうことが分かる。
 刻一刻と迫るその時に段々と強張るアオイの横顔を一瞥して、サンジは紫煙を長く薫せた。

「さっきも言ったがな、早く終わらせてェからお前足引っ張んなよ、チビ」
「うるせーな。全力で走るから任せろ」

 そう意気込むアオイに吹き出して、サンジは腹を抱えて笑った。

「ぶは! お前、係の言葉聞こえねェくらいに怖がってたのか!」
「はぁ!?」
「走るのはお控えくださいって、さっきから言ってるだろ」
「え」

 そうして耳を澄ませば――いや、澄ませずとも、目の前のゴシック調の服を着た係員が、中ではなるべく走らずお願いしますと声をかけている。アオイは一気に青ざめて、サンジに掴みかかった。

「何でだよ!」
「おれが知るか。……お、呼ばれてるな。行くぞ」
「ちょ、ちょっと待て。心の準備がまだ……!」
「ぁあん? 怖いんですかー? おチビちゃんはぁ〜」
「てめぇぇえ! 覚えてろ!」

 さっさと前を歩く背中を憎々しく見つめて、アオイは置いてかれまいと小走りで着いていった。


*****


「ひっ……!」
「…………」
「うっ……!」
「…………」
「く……!」
「……さっきから何と闘ってんだよ、てめェは」

 背後からの断続的な呻き声に痺れを切らしたサンジは、手にした懐中電灯で照らしたアオイの様子に、わずかに目を丸くした。

「何してんだ、お前」
「別に、なにも」

 口に手を当て、声が漏れ出ないよう懸命に努めているらしいアオイ。可哀想なものでも見るように、それを眺めるサンジ。アオイの神経の張り詰め方は尋常ではなく、これまでのどの敵と相対した時よりもそれは厳しい。

「こんなくだらねェ仕掛けでそこまでなるってなァ。お前な。いい加減認めたらどうだ? 苦手なんだろ、こういうの」
「……そんなんじゃ」

 「ない」と言おうとしたアオイが、何かを察したその時――アオイの肩に、「何か」が当たって。
 ――気付いたら飛び上がっていた。

「きゃあ!」
「ブフー! お前、今なんつった!? きゃあ?」

 「腹いてー!」と真っ暗闇の中爆笑し続けるサンジを親の仇でも見るかのようにアオイは睨め付けると、だが震える肩を自分で抱いて申し開いた。

「女言うな! だって今、なんか触ったんだ!」
「はぁ?」
「だからっ、俺気配には敏感なんだ。なのに気付かない内に何かが……」
「あ! おいお前! 後ろ!」
「ぎゃー!」

 一切の比喩なく真上に飛び上がるアオイを、さもスポットライトよろしく懐中電灯で照らすサンジの笑顔は、これまでアオイが見たこともないくらい崩れまくっている。

「っくく。はー、クソチビ。お前、マジで面白いなァ」
「てめぇ、騙しやがったな!」

 アオイが羞恥に顔を赤くしたその瞬間、畳み掛けるように。
 アオイの真横にあった石像が急に動いたかと思うと――顔を歪めて笑い出ながら、アオイに走り迫ってきて。

(無理ー!!)

「ゲゲゲゲゲゲー!」
「いやぁー!」
「ぐぇ!?」

 アオイはサンジの背中に思い切り飛び付くと、だき潰すが如く震える両腕に力を込めた。

(もう無理もう無理嫌だもう無理)

「クソチビてめェ! 離れやがれ!」
「に、逃げ! ぎゃぁこっち来んなぁ!」
「聞いちゃいねェな……」

 アオイの力などサンジからしてみれば非力でしかないが、さすがに内臓周りとなると堪えたのか、サンジは呆れたように息をついて脱力し、その腕をペリッと剥がした。そうして掴んだままアオイに向き直り、一言文句を言ってやろうと――

「おいクソチビ、おれを潰す気――」

 続きを言おうとして、サンジはハッと息を飲んだ。
 見上げてくるアオイの瞳は潤んでいて、眉毛は下がり。様々な気配に気疲れしたのか、息は荒く。そのおかげで、頬はのぼせて赤い。そのアオイの表情は、サンジからしてみれば――

「は、離れるのは嫌だ!」
「……お前なァ、なんて顔してそんなこと言うんだよ」

 ため息と同時に吐き出したその言葉は、未だ取り乱しているアオイの耳には届かなかったが。
 サンジは舌打ちをしつつ、アオイの横で不気味に笑う石像を蹴り倒し破壊すると、頭を振ってからフーと長く息を吐いた。
 それからようやくその腕を離す。

「あっ……!」
「――てめェが怖いものが苦手ってことは、よーく分かった。認めるな?」
「う……」

 サンジに重ねて言われ、アオイは項垂れる。彼が石像を破壊してくれたおかげで冷静さを取り戻したが、これでもまだ道順としては序盤なのだ。それでこのざまでは、今後サンジにどれだけの迷惑をかけるか。アオイ自分にも想像がつかなかった。
 そもそもお化け屋敷なるものが初めてのアオイにとって、全てが未知との遭遇で。ただでさえ不気味すぎるこの雰囲気の中、ここで目の前の男に見栄を張ったとして、どうなるだろう。
 言葉に迷うアオイに見兼ねてか、サンジは「早く済ますためだからな」と前置きをしてから、目を逸らして、常の彼らしくない――少しだけ余裕の足りない声色で言った。

「……認めるんなら、今だけはおれに掴むのを許可してやる」
「え」
「ただし、掴むならココ」

 トントンと指し示されたのは、懐中電灯を握る、サンジの腕だ。

「腕。ここなら許してやるよ」
「え、でも料理人の腕は大事だって……」

 困惑して、腕まくりをしている逞しいそれをぼんやりと見る。まさか、そんな。確かに、確かに意地悪くも根は優しい奴ではあるが。
 アオイの気後れした態度に、サンジは「気にするのはそこか」と少し機嫌悪く煙を吐く。

「おれの腕が、てめェの非力さに負けるわけねーだろが」
「いやまぁ、そうだよな。うん、そうか……」
「で、どうすんだ?」

 くいと顎で聞かれれば、アオイに選択の余地はなくて。

「……実は少し怖い、ので。お、お願いします……」

 おずおずとその腕を遠慮がちに掴むと、サンジはどこかホッとしたように。そしてからかい混じりに笑った。

「まぁ、てめェにしちゃ頑張った方か?」
「う、うるさいな! 男としてそんなの認めるなんて、嫌に決まってんだろ!」
「そうかもしれねェが、まぁお前の場合は、か――」

 パン、と音が鳴るほどその口を手で押さえるサンジを、アオイはますます当惑して見上げる。

「か……?」
「――何でもねェ。行くぞ」
「はぁ、了解」

 まぁ、こうして掴んでいてもいいだけ有難い。アオイは自身を安心させるように大きく息を吸うと、きゅっとサンジの腕を掴んだ。

「これなら、なんか怖くないかも」
「……そりゃ良かった」
「それにしても、俺相手なのにお前ってやっぱ優しいな!」

 笑って言えば、サンジはどこか複雑そうに眉を寄せ、タバコを噛み締めた。

「……はァ〜〜、これが麗しいレディーなら、言うことねェんだが」
「あはは、それはてめーの運の無さを嘆けよな」
「いきなり元気になったじゃねェか、クソチビ」
「ああ。誰かさんのおかげで――ってうわぁー出たぁあ!!」
「耳元でうるせーな!」


 それから、ありとあらゆる場面で叫びまくるアオイが、サンジの腕を掴むどころかほぼ腕組みのようにしてしがみつくことになり。
 無事生還した2人のその姿を、クルー全員が驚きとからかいを持って迎えたのは、また別の話である。


(なにあんたたち、いつの間に付き合い始めたわけ?)
Si*Si*Ciao