これが性ならそれは人也

「―――!?」

 AM5時。空は白みがかった水色に押される頃。サウザンド・サニー号洗面鏡の前にて、天を突き刺し高波を起こす絶叫が鳴った。

「な、な……なんだこれぇぇえ!!」


******


 さてここで、時計の針を12時間ほど前に遡らせなければならない。つまり一周前の、柔らかなオレンジ色が辺りを染める、PM5時の頃だ。
 麦わらの一味が停泊しているこの小さな夏島で食材調達に勤しむ金髪の彼――サンジは、常ならば誰かを伴って行動するのだが、その日に限って単独行動を取っていた。女性陣に買い出しを手伝わせるなんて言うのは彼の紳士道から大きく外れていたし、その他男性陣は色々なことが重なり、同行してくれそうなメンバーは誰一人いなかった。
 荷物持ちがいないことを嘆く気持ちもなくはなかったが、それよりもサンジは久々に1人で船外へ出たことへの開放感に満たされていた。
 仲間は好きだ。けれど、やはり常に誰かがいる生活で、部屋も集団で。船外でだって、いざという時のために大抵はペアなりグループなりを形成して行動することが多く、本当の意味で1人になれる時間は限りなく少ない。
 その島特有の食材を事細かに手にとって見たいサンジにとって、買い出し時間はいくらあってもありすぎることはなかった。単独の今は、誰かに気をつかうことなく作業に熱中できる。それが単純に、嬉しかったのだ。
 珍種の食材も見て回って、さぁそろそろ帰途につこうという時。

「よう兄ちゃん、あんた相当腕いいなぁ」

 声の主を探せば、軒を連ねる様々な露店から少しだけ奥まった道に、ごく小さな店を見つけた。そこの窓枠からひょっこりと姿を現した、胡散臭いヒゲを撫で付ける中年の男。
 サンジは少しだけ警戒して、タバコを吹かす。

「そりゃどうも。……しかし、何のことだ?」
「何って。そりゃ料理の腕さ」
「――あぁ、そっちか」

 てっきり腕っ節についてかと思っていたサンジは、少しだけ警戒を解くと、自身が抱える紙袋を見てニヤッと笑った。

「そう思うあんたも相当みたいだな、おっさん」
「島の外の人間がそんな食材選びするんだ。いい目をしてるし、使い道までしっかりと計算してるのが見て取れるぜ」
「……まァ一応、これで食ってたんでね」
「今は?」
「さァな」
「はは! そう答える奴ぁ大抵海賊船のコックだよ」

 笑われ、サンジは苦笑して新しいタバコに火をつけた。

「それでおっさん、あんたの店に面白いモンはねェのか?」

 尋ねれば、少し間を置いて男は口を開いた。

「食材としては、お前さんが今手に持ってる以上の品揃えはここにはねェな」
「それは残念だな、じゃあそろそろお暇するぜ」

 サンジが踵を返そうとしたその時、男はニィと口端を吊り上げる。

「――だが、加工物で良ければいいのがある」
「加工?」
「門外不出の当店継承技で作った、ここでしか手に入らないジュースだ」

 ジュース。ジュースに、継承技だと?
 暫く考える――こともなく、サンジはその後ろ姿に着いて行ってしまった。


*****


「――これは料理人の性だとは思いませんかっ! ねェナミさぁん!」
「うるっさい! そんな泣き言聞いてんじゃないっつーの! あの子どうすんのよ、引きこもって部屋から出てきやしないわ!」

 AM6時。いつもの起床時間よりずっと早くに起こされたナミのご機嫌は、すこぶる悪い。
 遡ること一時間前、目覚ましよろしく船内に響く声を上げたアオイに(一部の)一味が駆けつけた。
 一番に駆けつけたのは、同時刻には既に起床し朝食の準備をしていたサンジである。仮にこれを容疑者とする。
 なんの容疑にかけられているかと言えば。

「ふふふ。彼、可愛い姿だったわね。猫耳しっぽ」
「言わないでくれェー! ロビンちゃん!」

 思い出して、顔を真っ赤にして泣き言どころか本気で泣いているサンジに少しだけ同情したのは、同じく叩き起こされたウソップである。

「だがチョッパー、診察に間違いはないんだな?」

 長い鼻に振り向かれ、先ほどアオイの診察から帰ってきたトナカイ船医はしっかりと頷くと、「それしか考えられない」と切り出した。

「そのジュース以外、これまでのアオイの生活習慣となんら変わらない。食べてる物も他クルーと一緒。ジュースだけがイレギュラーだ」

 現在ウソップ工場兼デザインアトリエに籠城を決め込む彼――いや彼女の、なんと頼りなく見えたことか。
 チョッパーは遠目にそれを思い起こして、一味の中にあって未だ警戒心を消さない彼女の身に起こったことに想いを馳せる。

「……可愛かったぞー、アオイ!」
「可愛くない可愛くない可愛いはずがない」
「お前呪詛のように何言ってんだ……」

 ダイニングテーブルに突っ伏し、頭を抱えて呻くサンジを一同気味悪く見て、ロビンが手元のコーヒーカップをすっと持ち上げた。

「けれど……珍しいだけでそのジュースを買ったなんて、サンジらしくないわね」
「それに、何でそれをアオイに飲ませたのよ」

 美女2人に畳み掛けるように言われ、サンジはようやく顔を上げると、深いため息を吐いた。

「……1日だけだが、効能があるって、聞いて」
「効能?」
「確かに猫耳しっぽが生えるっつー効能はあったな」
「黙れ長っ鼻その鼻へし折るぞ!」
「いちいち話の腰折るんじゃない!」

 ガン! と2人して脳天に拳骨を喰らい、サンジはまた涙目になりながら続きを話し始めた。

「あの島の果実を使ったそのジュースは、作り方によって効能が変わるって店の奴が言ってたんだ。で、色々ある中に、疲れが取れるっていうのがあった。……念のため、レシピも確認させてもらった。おれの目から見て、不審な点はなかったはずなんだ」
「――なるほどね。最近あいつ、疲れた顔してたわ」

 ナミの呟きを拾うように、ウソップも頷く。

「ジュエリーの原案が思いつかないって、夜遅くまで紙とにらめっこしてたぞ」
「職人ってこれだから」

 ナミが呆れて額に指を当て、それから先ほどよりも表情を和らげてサンジを見た。

「つまりサンジくんは、良かれと思ってアオイにそれを飲ませたのね」
「…………」
「ふふ。彼に優しいのね」
「……ロビンちゃん、そんなんじゃ……」

 話を聞いていたチョッパーはすぐにイスから飛び降ると、スタスタと歩き始めた。ウソップが慌ててその背に声をかける。

「おいチョッパー、どこ行くんだ」
「アオイのところだ」

 サンジの顔が強張るが、安心させるようにチョッパーはニコっと笑った。

「アオイに伝えなきゃ。サンジはアオイのためを思って作ってくれたんだってこと。――それに、医者のおれから見て、今のアオイの体調は凄く良さそうなんだ。顔の色も一段と良くて……身体も軽いって、本人が認めてた。だから――効能は本当だ、サンジ」

 チョッパーは少しだけ嬉しそうに「エッエ」と笑ってから、医務室の扉を開けたのだった。

「それにしても、サンジほどの料理人の目を掻い潜る罠って何だったのかしらね」

 チョッパーを静かに見送ってから、レシピのことに言及するロビンを気まずそうに見て、サンジはおもむろにカップに口をつけた。

「……ロビンちゃん。単におれの経験と知識と、管理の至らなかった結果だ。作業の一手間一手間見せてもらったわけじゃねェのに、軽はずみなことしちまった」

 これまでにないくらい気落ちしたサンジを見かねて、ナミもようやく本来の明るい声を上げる。

「まぁでも、目的の効能がちゃんと効いて良かったじゃないの! 猫耳しっぽついちゃったけど、1日だけって分かればアオイだってそこまで怒んないでしょ」
「そうかな……」
「そうよ。何なら可愛いんだから、私にとってみれば最高に可愛がり甲斐のある対象ね」

 あーしてこーして遊んでやるわ、と意気揚々と話すナミとロビンの盛り上がりをどこか遠く眺めていた時、医務室からダイニングへ繋がる扉が開いた。

「サンジ」

 呼ばれ、肩が跳ねる。

「アオイが来て欲しいって。大丈夫だ、あいつももう怒ってないよ」


*****


「――だからな、俺は確かにこんな姿恥ずかしいけど、チョッパーの話聞いて、やっぱりお前に怒る気にはなれなくて……だからその、そんな頭下げるなよ」
 
 あたふたとして言葉を必死に探るアオイの様子を――サンジはまともに見ることができなかった。
 サンジの姿勢は、ここに来て土下座したそのまま、項垂れたかたちのままだ。頭を上げろと何度言われたところで、この目にアオイのその姿――猫耳しっぽ――を映すのは、動悸と息切れがしてパニックに陥りそうで、どだい無理な要求というものだった。

(なんでだ、おれ……!)

 梯子から降りて、バッチリと視界に飛び込んできた、彼のその姿。黒猫を思わせる耳としっぽがピョコンと生えた、なんとも――咄嗟に目と鼻を押さえた自分を褒め称えたい。

(女顔は、これだから嫌いだ……!)

 そうしてずっと、顔を伏せたまま一言も喋らないサンジに怪訝な顔をしたアオイは、不満そうに口をへの字にした。

「……何だよ、俺が良いって言ってんのに。つーかそもそも謝ろうってんなら、まずは俺の顔見てするのが礼儀じゃねーのか」
「……悪いが、おれの誇りのため、この頭は上げられん!」
「誇りってお前……」

 有無を言わせぬサンジの迫力にアオイは怯むばかりで、「そこまで思い詰めてたのか」と米噛みに手を当てた。――サンジとしては、のっぴきならない理由のためなのだが。
 そうとは知らないアオイは、サンジを励ますように普段よりも弾んだ声色で言う。

「確かに今回のお前は軽率だったと思うけど。でも、身体が楽になったのも本当なんだ。それにあのジュース、俺の好きな味だったし。だからさ、ほんと罪悪感なんて抱かないでくれよ」
「…………」
「……はぁ〜」

 仕方ない。そうアオイは呟くと、ふんと立ち上がってサンジにズンズンと近付く。その気配にハッとして、思わずサンジは顔を上げてしまった。

「…………っ!」
「お、ようやくご対面ってか。笑えるだろ、これ」

 照れを飛ばしたいのだろう、口元を釣り上がらせた彼の微笑みは、どことなくぎこちなくて。だがそれが返って、素の彼らしくて――
 サンジの瞳の焦点は、本人の意思とは離れてまるで強制されたかのようにアオイから逸らすことができない。
 真っ黒で形のいい猫耳は、男にしては柔和な面持ちのアオイにベストマッチと思うくらい映えてそこにあるし、艶のある長いしっぽはどこか凛としていて、彼の強く気高い心を表しているようだった。
 ――つまりは、文句無しに似合っていたのである。

 穴が空くほど見られたことがくすぐったいのか、アオイは自身の猫耳をわざとらしくやわやわと触ってから、「しっぽもけっこう触り心地いいんだぜ」とはにかむ。

(やばい、ヤバイヤバイヤバイ)

 ――冷や汗が。

「そうだ。お前も触ってみるか、コック?」

 ほら、と差し出されたしっぽがフワリと頬を撫でて――サンジはようやく我に返った。
 そして再度我を忘れてしまったらしい。気付いた時には梯子に思いっきり背中を打ち付けていた。

「――――!」
「おいおい、座ったままそんな速く後ずさる奴、初めて見たぞ」
「……ッてめェ、何しやがる!」
「何って。満遍なく猫耳としっぽ触れるなんて、そうないだろ。猫は警戒心強いから――あ、もしかして猫苦手とか?」
「いや、そんなことはねェが」
「なら問題ねーじゃん」

 フワッとしっぽが近付いてくる。空気を繊細に孕む美しい黒の毛並みは、サンジの目の前で蠱惑的にユラユラと揺れた。
 ゴクッと喉が鳴る。この音が目の前の猫耳の彼に、聞こえてなければいい――
 と、葛藤していたのに。

 ふ、と。自身の右手が、いつの間にかそのしっぽを捕らえていて。

「……ふふ、なんか擽ったい」

 顔を赤らめるアオイに、血の気が引いた。

(何をしとるんだおれの右手はーー!!)

 料理の時は頼りになるこの手であっても、本能には勝てないというのか!

「これはおれの意志にあらず人間の性だ抗えん生理的現象だっつーか動物姿は反則だコラァ!」
「何をブツブツ言ってんだ」

 サンジがしっぽの感触を確かめるようにその手に少しだけ力を込めると、アオイの身体が強張ったのか、少しだけ跳ねた。

「わ、悪い! 痛かったか?」
「ん、いや別に? ……それよりどーだよ、触り心地」
「……悪くない」
「……そっか」

 それからは、お互い暫く無言だった。サンジの繊細な手がアオイのしっぽと戯れるように撫でたり握ったりするたび、アオイの視線はどこか居心地の悪そうにあっちに行ったりこっちに行ったりする。それはどこか緊張しているようにも見えて、普段は見せない彼のその表情が、正直心臓に悪かった。
 さわさわ落ち着きなく触れば触るほど、普段アオイの頭にはない猫耳がピクピクと動くので、サンジの瞳はそこにも釘付けになる。

「……マジで本物なんだな……」
「……みたいだな。ちゃんと触られてる感覚あるし」
「おいそれ次言ったら許さねェぞ」
「はぁ?」

(こいつは男こいつは男、変装したただの男……!)

 そう言い聞かせて、ふと彼の矜持の高さを思い返せば、サンジはまた罪悪感と自己嫌悪に襲われた。男として見栄を張りたがる傾向のあるアオイだ。今はこうして笑ってくれているが、初めて目にした時は落ち込んだに違いなかった。
 ス、と目線をアオイのその瞳としっかり合わせる。そうだ。紳士たるもの、きちんと謝らなければ。

「……悪かったよ……」
「……うん」

 もういいよと苦笑してから、アオイは「少しは元気出たみたいだな」とコテンと頭を傾ける。サンジは急に跳ねた心臓を抑えるように服を掴むと、静かに深呼吸をした。

「……悪ィ。逆にお前に気遣ってもらうなんて」
「はは、そう思うなら、ちょっとワガママ聞いてくれるかな」
「てめェのワガママ?」

 何だろう。誰かに頼ったり、それどころかワガママだなんていうのをアオイが自分から言う奴ではないことを、サンジはもう知っている。このクルーを甘やかすのは、大体がサンジの仕事だ。それをこの目の前の猫だけは、いつだってするりとすり抜けるのだから。

「……おれに出来ることなら」
「お前にしかできねーよ。まずは、そうだな。やっぱりみんなの前にこの姿で出るのは嫌だから、ここまで朝ごはん運んできてくれないかな」
「なるほど」

 正直に言おう。ワガママとしては、なんともいじらしいレベルである。どこか申し訳なさそうに耳を垂らすその姿は庇護欲をこれでもかとそそる。しかもそれを見せるのは、今後一切自分だけだという。

「……それくらいお安い御用だ、仔猫ちゃん」
「は!? 仔猫っておい!」
「チビに猫だから、仔猫だろうが」

 立ち上がり、敢えての照れ隠しでそのふわふわの耳をきゅっと摘んで撫でれば、いつもの勝気な瞳とぶつかる。

「ふん。朝食だけにしてやろーと思ったけど、罰として昼も夜もだ! あと俺の好きなメニューじゃないと許さないからな!」
「はいはい、了解。仔猫ちゃん」
「コックてめぇぇえ!」

 投げつけられる罵声を無視して、サンジは名残惜しそうに耳を指で撫でてから、梯子を登った。目の前に朝の海が広がって、爽やかな空気だ。吸い込んで落ち着いてから、タバコを一本口に挟むと、深くため息。

「……全然罰になってねェんだよ、バーカ」

 これは忍耐苦行か、あるいはそれとは逆の――もしかしたら癒しかも――だなんて。思ったことは胸に秘めたまま、いつもより気合を入れてダイニングキッチンへと向かったのだった。


 それから、昼も夜もなかなかデザインアトリエから帰って来ないサンジを、ほとんどのクルーが羨ましがったのは言うまでもない。


(おいサンジ、おれだってまだ猫アオイ見てねェのにずりィぞこんにゃろー!)
(黙れクソゴム! 奴はみんなには見られたくはないんだとよ)
(ふふふ、何だか嬉しそうね、サンジ?)
(え? え? ……ロビンちゃん、何のこと?)
(疲れが取れるって効能は、どうやら当人だけじゃないみたいね〜。良かったわね〜、サンジくん?)
(…………)
Si*Si*Ciao