全てが凪ぐ

 長い足だ――と、アオイは少しだけ憎らしく彼の後ろ姿を見つめた。
 一際目立つシルエット。背筋の通った背中の上には、朝の眩しい日差しに爆ぜるブロンドの頭。彼のお気に入りの黒いベストとそれのコントラストは言葉にならない美しさで、まるでそこに見える噴水のような、整合性の取れた調度品と同じだ。
 そう形容された彼は――サンジは、快活に立ち並ぶ露店の中に興味をそそられる物があったのか、高い鼻筋を金糸から覗かせると、足を止めた。長細いトマトのような赤い実をした野菜を手に取って、じっくりと眺めている。アオイはその横顔にため息を吐いて、紙袋を抱え直してからのろのろと彼の元へ向かった。――ようやく、距離を詰めることができそうだ。

「おい、コック。まだ買うのか?」
「それを品定めしてるとこだ」

 真剣な顔は、嫌いじゃない。嫌いではないが――

「……この荷物見ろよ。買い込みすぎじゃね?」

 両手には、溢れんばかりの紙袋。食材やらスパイスやらが入ったそれらを揺らして、アオイはわざとらしく音を立てる。サンジはちらと視線を寄越しはしたものの、すぐに手元で光る赤色に興味を戻した。

「お前筋肉つけたいんだろ。丁度いい鍛錬じゃねェか」

 アオイの片眉がピクリと反応する。一方の彼と言えば、アオイと同等の量の紙袋を抱えているはずなのに、涼しい顔をしていた。
 ――意地を張りたくもなる。

「……ふん。まぁ、別にこれくらい? 重くはないからいいけどさ」

 アオイがツンと澄まして言えば、目の前からフッと鼻で笑う気配がした。

「へぇ? おれには、今にも落としそうに見えたが」
「は、チョッパーに目を診てもらうのをお勧めするぜ」
「んだよ、可愛くねェ奴だな」
「可愛げなんざいるかよ、この俺に」

 そもそも、今日の買い出しはサンジとアオイは別行動の予定だった。アオイはアオイでジュエリーメンテナンスのための材料調達に行く予定だったし、サンジはゾロとウソップを引き連れるという話でまとまっていた筈だった(まぁ、ようは彼らは荷物持ちだ)。
 極めて都会的な街。ここなら最新のジュエリー情報が手に入るだろうと意気揚々としていたのに。出来ることなら本屋にだって寄りたかった。――それなのに、なぜかサンジに振り回されている。
 今日は午後から船の番も任されているし、このままサンジの食料調達に付き合っていては、アオイのやりたいことは叶わない。

「だいたいお前、歩くの速いんだよ」
「ぁあ? リーチの差だろ。てめェの足の短さを嘆くんだな」
「カッチーン! 俺だって短くはねぇ、てめぇが長すぎるんだ!」
「それはそれは、過分なお褒めをいただきまして?」
「くっそぉお」

 今日のサンジは、極端に足早だった。
 ――実は荷物持ちのことなんて、正直問題ではない。予定が変更になるのはお互い様であり、食料は命に直結する問題だ。その調達を手伝うこと自体には、それほどの不満はなかった。
 それよりも、自分のことがまるで見えていないかのような、振り返りもしないサンジの振る舞いが、アオイの癇に障った。これこそが、振り回されていると感じる何よりの原因だった。

(なにが、紳士だ!)

 以前に、クルーからは「サンジはアオイに甘い」と言われたことがあったが、どこが、とアオイはそっぽを向く。
 そんなアオイに苦笑いして、サンジは腕時計にチラリと視線を落とすと、気を取り直したように赤い実を掲げた。

「オヤジ、これ20個くんねェか」
「あいよ、まいど!」
「に、20個!? 待て待て待て、これ以上は……!」
「ほー。重くないってお前が言ったと思ったが、おれの空耳か?」

 「耳もチョッパーに診てもらうべきか?」と、ニヤニヤした顔に覗き込まれる。

(この腐れエセ紳士!)

 新たに増えた紙袋を憎しみ100%で見遣って、アオイはなんとかそれを持つために今現在手元にある袋を効率よく抱える位置を模索する。――が、ひょいと。いつの間にか横から現れた逞しい手に、幾つかの重い荷物が奪われて。アオイは目をパチパチとさせた。

「え、コック……?」

 訳がわからないと、見上げれば。サンジは大量の荷物を担ぎ、ふぅと長めの息を吐いて、背を向けた。

「意地っ張りは、この辺でおしまいな。重てェのは俺が持つから、さっさと着いてこい」

 そう。結局手元に残ったのは、軽いものばかりだ。アオイは呆然とサンジを眺めてから、ハッと慌てて彼の背を追いかける。

「べ、別に普通に持ててたし……! お前だって元々たくさん持ってんのに、いらねーお節介だ」
「ふ、相変わらず素直さの足りねェ奴」
「なんだと!」
「――よし、これからお前の用事済ませるぞ」

 出し抜けに言われ、えっと気が抜けた顔を見せてしまったのは、不可抗力だ。
 サンジの真意を測りかねて、アオイの足は無意識に止まる。周囲の闊達な足音が、荷物を運ぶ貨車が地面を削る音が、市場の騒めきが――背後で流れる。
 サンジもアオイに合わせたかのように立ち止まると、しっかりとアオイに向かい合った。

「宝石の材料調達するんだろ? それに、本も欲しいっつってたな、お前」
「お前、覚えて……」
「船番も忘れるなよ? ほら、急ぐぞ」

 アオイの言葉を遮って前を向くサンジの背中を、ぼうっと見いる。
 思えば。
 今日の彼は、いつにも増して即決だったっけ。見て回る店も、いつもなら一店ずつ吟味するのに、目星をつけて効率良く見て回ってたっけ。
 普段、彼の歩く速さを気にしたことなんてなかった。それはつまり、アオイが気にするまでもなく、サンジが気を遣って歩いてくれていたという裏付けに違いなく。今日の彼が振り向きもせず急いでいたのは。

「――この、かっこつけ」
「ぁあ? 何だとクソチビ」

 さっきまでの苛立ちが、まるで初めからなかったかのように凪いでいく。

「……ほんと、紳士だよな、お前って」

 口籠もって少しだけ素直に言うアオイに、サンジは穏やかに笑った。

「今頃気づいたのか? 遅ェよ」

 歩く歩幅は、いつの間にか気にならなくなっていた。



 結論から言って、この島でのアオイの買い出しはかなり満足のいくものとなった。
 ジュエリー細工に必要な道具類は新調できたし、本屋に立ち寄り参考になりそうな物をあらかた纏め買いもできた。その際にはオシャレに拘るサンジにアドバイスを求めたり、メンズ用の物に関してはかなり参考になるアイディアを貰えた。
 そんなこんなで、何だかんだ楽しい散策だった。サニー号に戻ると、それまで船番をしていたゾロが「ようやく寝れる」と言って、陽だまりに膨らんだ中庭で睡りこけた。サンジは「昼間っからだらしねェ奴だ」と呆れたが、アオイは暖まって芳しい芝生の上はさぞかし気持ちがいいだろうなと、こっそり心の中で思う。気持ちを切り替えるようにダイニングへの扉を開いてテーブルへ一旦荷物を置くと、アオイは後ろで扉を閉めたサンジに振り返った。

「ここに置いておけばいいか?」
「あぁ、そのままでいい。悪いな」
「いや、こっちこそ」

 腕を回しながらちらりと見たのは、サンジの腕の中にある参考書と写真集の数々。景気良く買ってしまったそれらはかなり重いはずなのだが、サンジはケロリとした様子でその本たちをテーブルに置くと、それからその他食材の紙袋もドンドンと積み置いていく。

「……重かったろ」

 自分の何倍の量だろうか。
 申し訳なさに顔を逸らすと、苦笑いをしたサンジの気配が伝わった。

「ま、お前にとってはそうかもしれねェが、おれには大して別にってところだ」
「悪かったな、非力で」

 拗ねた風でもなく、結構本気で言ったからだろうか。サンジはアオイの言葉を聞くと、ふと何か閃いたかのような瞳を向けた。

「悪いと思うなら、一つ頼まれてくんねェ?」



「思ったとおり、包丁の扱い方悪くないな。やっぱ手先が器用だからか?」
「それもあるかもだが、忘れてねーか。俺は元々一人で航海してたんだぜ。身の回りのことは大抵自分でやれるさ」
「そうだったな、そういや」

 キッチンは、コックの聖域である。――それなのに、だ。
 アオイはサンジと肩を並べて、黙々と手を動かしていた。人参と玉ねぎを細かく切っていく。
 午後からは船番の予定だったが、街側ではない裏側にあるこの静かで寂れた港は、かなり見晴らしがいい。また建物も近くにはなく、ダイニングキッチンの窓から十分に見張れる、ということで、アオイはサンジの雑用を頼まれていた。
 隣では、エプロンを腰に巻いたサンジが今日買っていた例の長細い赤い実を水煮にしているようで、辺りに濃厚な香りが漂う。

「いい匂いする」
「トマトより甘み強そうだな。さて、どうすっか」
「何作るんだよ」
「トマト風料理」
「そんなの分かってるっつーの。料理名」
「……よし、次ニンニク潰してくれ。そのあと炒める」
「あっ、話題そらしやがったな」

 だが、今日は助けてもらった恩がある。アオイは素直に引き下がると、切った人参と玉ねぎにはラップをして、一旦手を洗ってからニンニクを手にした。改めて人参も玉ねぎも、恐らく人生の中で一番大量に刻んだだろうことが分かる。

「……前々からの疑問。船長の胃袋ってどうなってんの」

 ハーブを取り出すサンジに尋ねれば、肩を竦められた。

「ゴム製なんだろ、きっと」
「つまり際限なく伸びる、と」
「その分縮まらねェのがゴムの原理に反してるがな」
 
 ニンニクも凄い量で、この下ごしらえですらアオイにとってみれば気の遠くなる作業に感じる。

(そりゃ雑用も欲しくなるよ)

 これは重労働だ。たまになら手伝ってやらんこともない、思った自分に、アオイは仄かに笑う。いやに殊勝な今日の自分は、きっと機嫌がいいのだ。サンジもサンジで口元を穏やかに結んでいて、雰囲気はどこか優しい。

「でもまァ、その分作り甲斐はある」

 彼の脳裏には、彼の料理を美味しそうに食べるクルーたちが映っているのだろう。アオイは笑みを継続させると、サンジの思考を追うように言った。

「いい食べっぷりだもんな、船長」
「お前も負けてねェけどな」
「は? 嘘だろ? 俺はもっと上品に食ってる」
「自分で言うか? 普通」

 ニヤリとしてから、サンジは何かを思い出すように視線を宙に浮かせた。

「まぁ、上品なのは確かっつーか、お前のテーブルマナーって何か見てて奥ゆかしいっつーか」
「男気がないとでも言いたいのか」
「別にマナーが良いにこしたこたァねェ。……あ、それ貸せ。おれがやる」

 アオイがニンニクを摩り下ろし終えてフライパンを手にしたところで、横からすっと腕まくりをした手が伸びて来る。

「もういいのか?」
「あぁ、こっから先はコックの仕事だ」
「……炒めるだけならやれるのに」

 少し不服そうに見上げれば、サンジは虚を衝かれたような顔をしてから、心底おかしそうに笑った。

「お前って、意外に献身的」
「はぁ? ただてめぇが大変だろうと、俺は……」
「まァ気持ちはありがたいがな。味付けは本職がやるに限るんだよ」

 「お前は引き続き見張りしてくれ」と仕事を打ち切られれば、アオイとしてはどうしようもない。少しつまらないと思いながらも手を入念に洗って、ホッと一息つこうとイスに腰掛ける。
 窓の向こう、たなびく雲と海鳥の陰影に目を細める。海も、空も凪いでいる。

(穏やかだ)

 それからアオイは今日買いたてのジュエリーの写真集を手に取り、1ページ目からじっくりと読み始めた。

「飲み物いるか?」
「え? あぁ、そうだな……コックのオススメでいいよ」

 急にかけられる声。いつもの、気を利かせてくれる彼だ。

(こんな時間も、悪くないなぁ)

 炒める光。煮詰まる香り。カチャカチャと鳴る作業音。耳に馴染んで、アオイは静かに瞳を閉じ――そして明けてから、ゆっくりと本に集中していった。

 その向こうのキッチン。サンジは周りを気にしなくなったアオイを見て、静かに笑った。

「船番になってねェな、こりゃ」

 手元にあるチャイティーラテに、肩を竦めて。

 ――その後、出て来た料理はクルーに絶賛されたり。手伝ってくれたお礼にと、サンジが赤い実で作ったデザートを特別にアオイにだけ出したりしたのは、また別の話である。
Si*Si*Ciao