番号札を受け取り間もなくすると、サトツという試験管の合図で幕が上がった。どうやら最初は、どこまでも果てしなく駆けていくマラソンで合否を絞っていくらしい。

(これくらい、楽勝よ)

 これでも小さな頃からそれなりに鍛錬してきた。使役を呼び術を発動させるというのは、他の人間が思うよりも神経と体力を消費する。またカナタは「憑かれる」側ではなく「憑かせる」専門ではあったが、万一に備え霊に身体を貸すための訓練も受けている。そのためには基礎体力が一定の基準を超えていなければ話にならなかった。そこに男と女の区別はない。否応なしにむさい男たちの中に放り込まれ修行に明けくれた過去を思い出すと、なぜだか少し倦怠感が募る。
 未だ不機嫌なまま走っているカナタに、案じる声色でキルアが話しかけた。

「おいカナタ、お前ほんっとに大丈夫か?」
「なにが?」
「あのおっさんじゃねーけど、お前、どうもそんなに体術とか体力とか、いい線いってるようには見えないんだよなー」

 「体の線が細いからか?」と茶化す彼は一方で、スケボーを滑らせている。それをじとりと見ながら、カナタは「失礼だな」とひとつ鼻を鳴らして見せた。

「これでも訓練は受けてるよ。家の裏山を往復駆けることなんて、日々の日課だったし」
「げ、マジで? 意外とやるね」

 心底驚いたのだろう、キルアはスケボーのリズムを僅かに崩すと、慌ててまたカナタの横についた。

「でもま、疲れたらオレに言えよ。これ貸してやるからさ」
「ありがとう。たぶん必要ないけどね」

 ツンと答えれば、「かわいくねー」とむくれた声が返ってきて、やはりまだ子どもだなぁとカナタは内心笑った。

 そうして走り出して数分した頃、カナタはツンツン尖った目立つ頭を見つけた。どうやらその頭の持ち主は、それこそキルアとそう年端も違わない少年のようで、天に伸びる黒髪と、風に揺れる短いズボンが、彼の快活さをそのまま表しているようだった。後ろからしか見えないが、弾む足取りからして、きっと表情は爽やかなんだろう。

(あの髪、毎日セットしてるのかな)

 心の中でだけ、呟く。するとカナタの見つめている先が気になったのか、キルアもその少年に気付いたらしい。自分と同じ歳くらいでこの試験に参加するその人物に、彼も興味を持ったようだ。

「カナタ、あいつのこと見えるか?」
「うん。キルアと同い年くらいかな」
「たぶんそうだろうなー」
「気になる?」
「まぁ、気になるかって聞かれれば、気になる」
「素直じゃないね」
「カナタほどじゃないけどね」

 お互い顔を見合わせて、ぷっと吹き出す。11歳と向かいあって普通に会話し、普通に笑うとは。自分の精神年齢が低いのか、それともキルアがただ単に大人びているのか。

(きっと後者ね)
(どちらもだろうぜ)
(五月蠅いわよ、白哉)

 すかさずツッコミを入れてきた白銀の蛇にうんざりと目をやると、白哉はそれに応戦して鋭くカナタを見据えた。

(お前なぁ、このガキについてって大丈夫なのか?)
(大丈夫って……何が?)
(忘れたとは言わせねーぞ。今はお前が浄化しちまったから欠片も残ってねぇが、こいつが背負ってきた恨みつらみ、ちょっとやそっとの殺人で負う質と量じゃねぇ。それに、お前、気付いたか?)

「カナタ、オレあいつんとこ行ってみるけど、来るよな?」

 はっと横を向くと、言葉を閉じたカナタを不思議そうに見るキルアがいた。カナタは少し戸惑ってから、はにかんだ口元を開く。

「えっと、キルア。絶対追いつくから、先行っててもらってもいい?」
「……ふーん。そいつとお喋り?」

 無表情に淡々と言うキルアが、少し怖い。こういうところも、11歳とは思えなかった。カナタは出来る限り冷静を繕うと、笑うそぶりをみせた。

「まぁ、そんなとこ」
「そっか」

 否定しないカナタに、どこか諦めたように溜息を吐く。「じゃあ、絶対追いついてこいよ」と言葉を残して、キルアは地面を思いっきり蹴った。
 彼の背中が遠ざかり、ツンツン頭の横に並ぶのを確認する。ふぅ、とひとつ呼吸を置いてから、カナタは白哉に視線を戻した。

(で、気付いたって、何が?)
(――これだから、陰陽寮の得業生にもなれないアマちゃんはよー)
(どうせ才能なんてないわよ!)
(誰もそうは言ってねーだろ。詰めが甘いっつってんだ。あいつの背負う怨の中に、特異なのがあったろ)
(え?)
(見てみろ、お前の浄化で払い切れなかった怨を)

 言われるがまま、キルアの背中を見つめる。確かに、既に怨霊たちの姿は、ない。そもそも陰陽師候補である得業生にはなれていないが、カナタの陰陽術はその血統もあって確かなものだ。少し強い怨のある魂でも、そこまで力を入れなくともあっさりと成仏させることが出来る。それなのに、キルアから漏れ出す陰の気配には、僅かだが確実に、人間の私怨がじっとりと浮かび、滲んでいた。その気配がカナタの背を這い、ぶるりと震えさせる。あれは何だったかと必死に記憶を手繰り寄せ、急に思い当たる過去が暗闇からフラッシュバックした。

(まさか、生霊!?)
(ご名答。まぁ、それだけじゃねぇんだが、今のカナタには説明しづらいしなー……)
(どういうこと? 生霊って、生きてる人間の意思でしょう。祓おうと思えば、私にだって)

 カナタの言葉を、白哉は曖昧な口調で否定した。

(今回ばかりはそうもいかねぇ。今のお前じゃ、無理なんだ)
(なにそれ! じゃあ白哉がどうにかしてあげられないの?)
(何で俺がそこまでしてやらなきゃなんねーんだ。そんな義理ないだろ)
(そうだけど、でも!)
(おら、今は他人の心配してても仕方ねーって。自分のことをしっかり頑張ってくれ)

 くるりと振り向く琥珀色。そう、頑張るために、彼はついてきてくれた。決して寄り道するためなんかではない。全ては、帰るため。そのためには、試験に何としても受からなければならなかった。
ぐっと唇を噛み締めるカナタに、白哉は少しだけ優しく言った。

(ああいう類のモンは、本人が乗り越えなきゃなんだぜ。それはお前だって今まで除霊してきて、思い知ってんだろ。情に流されるな)

 カナタはその言葉を閉じ込めるように、そっと瞳を伏せた。ツキリと痛む胸。そうしてゆっくりと開いた瞳で、少し遠ざかった背中を見る。無邪気なまでの、子供らしい横顔。スケボーから降りて、楽しそうに走る姿。その背も、いつか。いつか、あの人たちのようになるのだろうか。そうはならないでほしい。願わくば、ハンゾーのように、闇に生きても尚闇に溶け込まず、強くあって欲しい。
 たとえ綺麗事でも、カナタはそう願わずにはいられなかった。


*****


しかし、キルアの事情と、このマラソンとは別問題だ。

(は、速い……!)

 とっくに見えなくなった二つの頭に、カナタは潔く追いかけることを諦めていた。スタートして5時間ほど、その間、この試験を切り抜けるために白哉と会話していたからだろうか、結構な後方まで来てしまったらしい。まぁ時折吹かれる風に極力力を奪われないよう、大柄な男の集団に紛れていたからともいえるが、それなりに鍛錬してきたと自負していたのだ。それなのに、この疲れ。

(本当にみんな、達人レベルなのね)

 まだ身体に余裕があることにはあるが、普段から身体を主に鍛え、主に使うわけでもない霊媒師の女の体力など、底が知れているというもの。無駄に力を入れ、無駄に体力を浪費してはそれこそ白哉にも、キルアにも呆れられるだろう。

(キルアに追いつくと約束はしたけど、どうやらそれは果たせそうもないわね)

 カナタは頭の片隅で、先ほど脱落した体の重たそうな男性を思い出した。ああして一人、また一人と絶望の淵に落とされるのかと思うと、ぞっとする。それをニヤニヤと楽しげに眺めていた試験の常連組であろう人間もいることに、カナタの心は疲弊した。

 マラソンが階段に差し掛かったところで、脱落者が一気に増えた、それを横目で憐れみながらも、カナタもそれなりに疲れてきた足を動かし、上を目指して一歩ずつ上る。そこで前方から聞こえた蝉噪に、また辟易とならざるを得なかった。

「まさか本当に金でこの世の全てが買えるとでも思っているのか!」
「買えるさ! 物はもちろん夢も心もな。人の命だって金次第だ! 買えないモンなんか何もねぇ!」

(またこの人たちは……)

 見ると、上半身を裸にした眼鏡をかけた黒髪の男が「金だ!」と叫びながら我武者羅に走り、それを咎めるように金髪の若者がその背を追っていた。

「こんな奴ら、早いところ抜かしましょうか」

 自分を鼓舞し、こんな奴らには負けるわけにいかないと、ぐっと足に力を入れた時だった。金だ金だとやたら騒ぐレオリオと呼ばれた青年が、力の限り叫んだ。

「金がありゃオレの友達は死ななかった!」

 尋常ではない汗をかきながら、肩で必死に息をしながらそう叫ぶ彼。それから語られる彼の世への憤りと、そこに混じる悲しみにも似た懺悔。亡き友を過去に背負う彼を、どうして汚いと言えるのか。世の中は、金。その考え方を否定すること自体、恵まれた自分はしてはならないはずなのに。医者に困ったことも、薬に困ったこともない。ただ人とは違う環境ではあったが、決して貧しく不憫な生活を送っているわけではなかった。法外なんていう言葉が、そもそも存在しなかったのだ。

(白哉)
(……なんだよ)
(私、ハンター試験受けて良かった。色んな人が世界にはいる。自分の立場が分かる。それだけでも収穫よ)
(そりゃ良かった)

 少し嬉しそうに頷く相棒。なぜ彼がハンター試験を受けてみろと促したのか、少しだけ分かった気がした。


Si*Si*Ciao