階段を駆けていくこと数刻。カナタは先ほどの喧騒の原因、レオリオとクラピカという二人組の後ろに着くように走っていた。たまに交わされる二人の会話からして、どうやらキルアと一緒に先頭を走っている少年はゴンというらしく、彼らはその少年とここまで一緒に来ていたようだ。知るつもりはなかったが、レオリオという人の過去の話まで盗み聞きしてしまった。他人のテリトリーに無断で忍び込んだという若干の気まずさを感じる。
 二人とも疲れてはいるようだが、一般人とは、なるほどそれなりに違うらしい。レオリオは鍛えられた肉体をしているし(見たくなくても上半身が裸なのだ)、クラピカは細身ながらもバランスの取れた走りをしている。いわゆるボディバランスが良いのだろう。カナタはクラピカの背をじっと見つめ、もしかしてと一種の希望を抱いた。

(ねぇ白哉。このクラピカって人、男のふりした女だったりして)

 陰陽の式占を使えば、その判断くらい造作もないが、この試験では「自衛」以外の陰陽術を極力使わないことに決めたため、推して測るしかない。少しテンション高く尋ねるカナタに、白哉は少し考えて言った。

(お前みたいにか? どうだろうな、たしかに女より綺麗な顔してっけど)
(仲間だったら嬉しいわね。女の子と一緒にいた方が何かと心強いし)

 心の中といえど会話をしていたからか。少し気を抜いた瞬間に足がもつれそうになる。慌てて次の一歩を踏み出し、なんとか転ぶことを防ぐ。ここでリズムが狂ったら、再度走り出すのが苦しくなるのは目に見えている。はぁ、と息を整えながら、カナタは集団から離れないようぴったりとくっついて走った。

「お」
「見えたようだな」

 集団前方がわざめいたのに釣られ、目線を上げる。出口から真っすぐ光が差し込み、志望者を天へと導いているようにさえ見えた。その光に救いを見て、俄然やる気になったのだろう。レオリオは「っしゃー!」と気合の雄叫びを上げると、先ほどの重い足取りが嘘のように駆けあがっていく。先頭の姿はもう見えない。少し先でハンゾーが出口を通り越したのを目にする。

(やっぱり追いつけなかったなぁ)

 あとでキルアには謝っておこうと苦笑いした、その時だった。
 その光に照らされるひと際目立つ影。がっしりとした体形に、不似合いな奇術師の出で立ち。彼は走っている。他の受験者と変わらず、背を向け走っている。それなのに、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。薄ら寒い、薄っぺらな笑みが、私を――

(カナタ?)

 背筋が急激に粟立った。脳内が一瞬で冷え、その冷たさで足が凍ってしまったようだった。ぶるりと目じりが震える。首を悪寒が締め上げる。

(カナタ、おい――……!)

 なぜ、私を――
 気付いた時には遅かった。今度こそガッともつれた足を意識した時には、身体が前のめりになっていた。もうダメだと足の力を抜いたときだ。――前方で走っていたクラピカの足元に倒れこんでしまったのは。

「な……!」
「え?」

 ずしゃっと鈍い音を立て、二人重なり階段に転がる。その音に驚いたレオリオが振り向く気配がした。それでもまだ、悪寒は去らない。震えが、止まらない。
 クラピカは意表をつかれたようだが、あっさりと体勢を立て直すと、振り返ってカナタを見やった。

「だ、大丈夫か?」
「う……」
「……どこか打ったのか」

 ようやく機能しだした脳味噌だが、最悪の状況だ。うっかりというには迷惑をかけすぎている。カナタは慌てて顔を上げると、困惑した顔でこちらを見るクラピカに頭を下げた。

「ご、ごめんなさい。……足が、もつれてしまって」
「いや、構わない。どうせすぐにゴールへ着くだろうからな。――それよりも、君は大丈夫なのか」
「え?」
「酷く顔色が悪い」

 言われ、未だ鳥肌が立ったままだということは、鈍い頭でも理解出来た。高熱が出た時のような寒気と、倦怠感。なんだか吐き気もするような気がする。――どうして急に?

(あの、奇術師――)

 それしかありえなかった。思い出して、また肩が震える。

「――走れるか?」
「……大丈夫です。ご迷惑を、おかけしました」
「何だ何だ、こんなとこまで来てナンパか?クラピカ」

 駆け寄り残念なことを口走るレオリオに、クラピカは心底呆れた瞳を寄越した。

「残念ながら、私は君が好む低俗なお遊びになど興味はないのだよ、レオリオ」
「なんだと!」
「あの……」

 「ナンパって何ですか」という声は、まるで荒野に吹く微かな風のように掠れた消える。やはり聞こえなかったのか、二人は勝手に話を展開させ始めた。

「オレは女の子ながらここまで頑張ってるその子をただ元気づけようとだなぁ!」
「元気づける方向性に疑問を抱かざるを得ないな。品性に欠ける」
「てめぇ、この!」
「あ、あの!」

 これ以上、二人の足どめをするわけにはいかない。決死の力で立ちあがると、カナタは精一杯笑って見せた。

「僕なら、大丈夫です。ご心配おかけしてすみません。早くみんなで上までいきましょう」
「あぁ、そうだな――って、は?」
「今、僕っつったか……?」

 「まさか」と言いたげに、ぎぎぎとこちらに顔を向ける二人に、カナタは「またか」とわざとらしく呟いてやる。そうして、これ以上ないだろう笑みを送ってみせた。

「はい。僕、男ですよ」

 目を見開く二人に言い切るのに、少しの罪悪感を感じる。それを振り切るように、二人を置いて前を走った。後ろからレオリオの「さ、詐欺だー!」という愚かしい叫びが聞こえたが、カナタは聞こえないふりをする。

(カナタ)
(白哉)
(さっきの、どうしたんだ。あの奇術師がどうかしたか?)
(……何でも。何でもないよ)

 未だ探るような瞳を向けてくる白哉の喉を撫でてやる。それでも、胸の奥に痞える気持ち悪さは依然として残り、肩には変な力が入ったままだった。
 早く、この閉じ込められた空間から出たい――
 そうしないと、いつまでもあの笑みが脳内で反射して、目の前を埋め尽くしそうだったから。


*****


 階段を上りきると、爽やかな風の吹く高台――
 というわけではなかった。

(き、気持ち悪い……)

 地下通路で感じた比ではなかった。あの時は各自がそれぞれ引きずってきていたが、ここは違う。この場を支配し彷徨う霊魂――

(地縛霊ってやつだな。無念にもここで死んでいった奴の、何て多いことやらだぜ)

 先ほど、あの奇術師の背後に見えたのはそれだったのか。あの光は、決して光ではなく、そこから漏れだすこの空気……瘴気に、自分はやられたのかもしれない。たしかに思えば、あの男からは異様な雰囲気が漂っていたが、だからといってあそこまで体調を崩すこともないはずだ。カナタはこの場所のせいでああなってしまったのだと結論付けた。

(カナタ、結界張っとけよ。そうやって、気分悪くなるよりマシだろ)

 当然のように言われ、カナタはいやいやながらも腕を組むと、裾の中で印を切る。マラソンの最中、瘴気が酷い場所があった場合には、そうして自衛すると決めたのだ。
 修験道から始まる印を切る山術は、五術の中でカナタが最も得意とする分野ではあった。だがこの環境がいつまで続くか分からない中で、常に気を張り巡らす結界を使うというのは、正直堪える。
 霊媒体質は本当に厄介だとほとほと疲れていると、横から声をかけられた。

「やはり顔色が悪いようだが、大丈夫か。その……」
「あぁ、カナタって言います、クラピカさん」
「カナタか。私のことはクラピカでいい」
「じゃあ、クラピカ。僕の顔色、これから良くなる予定だから、大丈夫だよ」
「予定? どういうことだ」

 要領を得ないのだろう、少し眉をひそめるクラピカに、カナタはもう一度笑った。

「僕、ちょっと特殊な体質なんだ。身体に害を与える気をはじき返すことが出来る。本当は疲れるからしたくないんだけど……」
「気功法のようなものか?」
「まぁ、そんな感じ」

 確かに気功法も山術の一つで、繋がりがないことも無い。なかなか鋭いな、とクラピカの顔をもう一度よく見てみる。

(見れば見るほど、女の人みたいに綺麗な顔ね)

 が、確実に言えることは、知識が深く聡明だということだろう。その瞳と言の葉に宿る絶対の自信は、何も彼の持つ体術のみに言及するわけではなさそうだ。
 ふぅ、と一つ息をつく。結界が完全に張り終わった。

「僕からも、一つ聞きたいのだけど」
「なんだ?」
「クラピカって男? 女?」

 ごく自然な問いをぶつけると、愕然と固まるクラピカの後ろから、「ぶ!」と吹き出す音が聞こえた。

「だっはっは! 女だってよ、クラピカ!」
「黙れ、レオリオ!」
「え、違うの?」
「違う!」

 顔を赤らめてキッと睨みつけてくるクラピカに一瞬たじろいだが、やはり顔は女である自分顔負けの可愛さ&美しさだとしみじみ思う。……それはそれで、何だか虚しいが。

「なぁんだ、可愛いと思ったのに」
「!! カナタ、お前っ!」
「あ、説明始まるみたいだね。早く行こうか」
「カナタ!」

 憤慨するクラピカをちらりを見て、カナタは思わず足をとめた。
 今、目に飛び込んできた霊魂の姿に、金縛りをかけられたかのように息をのんだ。

(目が、ない――)

 どこからやってきたのだろう、彼に纏いだす複数の霊魂に、カナタは胸が張り裂け泣きそうになった。これは、彼への恨みじゃない。憎しみでもない。それだけの醜さではない。ただただ、哀しみに囚われたイキモノだ。彼らは、嘆いている。そして、背負わせている。他でもない、目の前の――

「……カナタ? どうした」

 急に返事をしなくなったカナタを訝って、クラピカは顔を覗き込んできた。はっと意識を彼から逸らすと、カナタは急ぎ口調で「早く次に行こう」と切り出し、背を向けた。
 心優しい彼の背後を覗いてしまったことに後悔する。彼らは、自分に何かを語りかけるように、わざわざ近寄ってきたとしか思えなかった。霊媒師と知った上での、あれは態度だ。カナタほどの霊力を持った人間なら、大抵の霊は警戒して近づかないはずなのだ。

「やっぱり嫌な体質ね」
「何か言ったか?」
「ううん、何も」

 ぽつりと言うと、後ろでガレージが「ガシャン!」と閉まる音がした。


Si*Si*Ciao