捌
「んー、いい感じでトランスがかってたけど、切れちゃったみたいだねぇ」
にこやかな顔、気さくな喋り口調なのに、背筋が震える。いつか感じた首を締め付ける感覚が何故か今甦り、カナタは吐き気にも似た恐怖を必死に押さえ込んだ。
「ほぅら、そうやって恐怖が勝って出てきちゃった。ああもったいない、もったいないね」
残念だ、と芝居がかった動きをする。
「でも、そうだなぁ。あのトランス状態にはゾクゾクしちゃったから、君は合格ってところかな」
合格――
何のことだろうか。試験官ごっこなら、殺すことはしないということか。なぜだ。自分は彼に何も出来ていないし、今だってこうして怯えきっているというのに。
――彼の言うトランスというものの心当たりは一つしかない。先ほどまでのクリアな思考。どこまでも掻き抱けそうな、深い死への共感――
確かに、霊力は冴えていた。だからこそ白哉も驚いていたのだ。だが、彼のゾクゾクしたという表現は、一体どういうことだ。
それでは、まるで。
「トランスって」
「おや、喋れたのかい。ますますいいねぇ」
「トランスって、どういうこと?」
ドクドクと、心臓が早鐘を打つ。その先の言葉を聞きたくない。だが、聞きたくないと思う時点で、予想はついていた。言われるまでは、知らぬふりをしたい。それでも、言われないまま一人抱えることも出来なかった。
「分かってるくせに」
ニンマリと。
「君は、実戦を積めば積むほど感覚が冴えていくタイプだ。そして、それは恐怖よりも戦いの高揚が勝るということ。つまり――」
ヒソカは喉を震わせ、やたら長い人差し指でトランプをめくった。
ハートのエース。
「さっきの殺人現場を見て、君は、興奮したってこと」
(嘘だ)
「ボクと同じだね」
(違う)
(私は、ただ霊媒師として、死を――)
彼らの想いを、共有しただけなのに
「違う!」
力の限り叫んだ。それなのに。それなのに声はただの渇いた音となり、無惨にも霧に吸い込まれてしまった。ヒソカは動揺を隠せないカナタを見ておかしそうに肩を揺らす。
「まぁ、いずれ分かるよ。――さて。彼らは、なるほど好判断だ。ご褒美に10秒待ってやるよ」
機嫌良さそうに数を数え始めたヒソカは、すぅっと霧に隠れて見えなくなった。カナタは目を逸らすことが出来ず、恐ろしさに顔の角度すら変えられない。
(白哉)
(大丈夫だ、カナタ)
(白哉、違うんだ、私は)
(分かってる、俺は分かってるから。大丈夫だから、な?)
脳に直接響く白哉の落ち着いた声は、どこまでも優しい。
(お前はただ、亡きモノたちに同調しただけだ。確かに引っ張られそうにはなるが、そこにあるのは霊媒師としての慈愛だよ。愉快犯の奴とは違う。お前は、立派な霊媒師だ)
普段は誉めてなんかくれないくせに、こういう時に優しい白哉はずるい。込み上げるものを堪えて、カナタは金色の瞳を見つめた。
(そうだ、私は霊媒師)
白哉がいる。霊の何たるかを、自分よりも理解し諭してくれる、頼りになる使役がいる。
(私は、霊媒師……)
どこにいても、故郷を離れても。
けれど、その事実が痛かった。
このハンター試験も、霊媒師として成長するために受けたことにはかわりない。それは分かっている。
しかし、キルアの背後、クラピカの瞳。そういった、他人の様々な過去を知ってしまう背徳。それを生業としていた故郷でさえ、この異質さには辟易としたものなのに、彼らに囲まれると更に自分は彼らとは遠いところにいる気がした。
あんな死を受け入れ愛す感覚など、つまるところヒソカの狂気と同じなのではないか。考え出すと、思考はどんどんと暗くなる。白哉の慰めは、霊媒師寄りの見方をしているからにすぎないとさえ、カナタは感じてしまっていた。
(やっぱり私は、)
霊なんか見えない普通の人に、「お前はおかしくなんかない」と、笑い飛ばしてほしかった。「みんな一緒だ」と、そう。
変わらないのだと
「カナタ!」
透き通った声に呼ばれる。驚いて振り返ると、ひどく息を切らしながら駆け寄る、彼。
「クラ、ピカ」
「良かった。カナタ一人だけ逃げ遅れて、心配していたんだが、その……大丈夫か」
置いていってすまないと顔を歪ますクラピカを見て、カナタはなぜか涙が出そうになる。
「心配、してくれたの」
「当たり前だろう! あのヒソカと二人にさせたんだ、仲間なのに」
「仲間……」
(キルア、クラピカ、レオリオ……)
僅かな時間かもしれない。そこにあるのは小さな間の、彼らにとっては取るに足らない社交辞令の付き合いなのかもしれない。それでも。故郷に帰る、その時までは。
(彼らと、夢を見ていたい)
私が、ただの私でいること。ただそれだけ。そう願う。
カナタはふっと微笑み、クラピカを見上げた。もう大丈夫だ。
霊媒師であることは、決して告げない。
「うん、僕は大丈夫だよ、クラピカ。それより今、レオリオの声がしたんだけど」
「あぁ、急ごう」
「さっきまでヒソカはそこにいたんだ。そう遠くには行ってないはず」
カナタの言葉にクラピカは頷くと、霧の中を走り出した。カナタは見失わないよう、その男のわりに華奢な背中を必死で追い掛けた。
*****
クラピカと一緒にレオリオの様子を見に行くと、既にレオリオとヒソカの姿はなく、ゴンという少年がそこに呆然と突っ立っていた。確か最初に見掛けた時、レオリオとクラピカと一緒にいた少年で、その後はキルアと行動を共にしていたはずだ。
「こっちだよ!」
暗く先が見えにくい森の中を明るく誘導するゴンは、どうやらレオリオの香水の匂いを辿っているらしい。カナタはいくらかいでも木と草と土の匂いしか感じられず、呆気にとられているクラピカと思わず目を見合わせた。
そのゴンが言うには、レオリオは怪我を負わされはしたものの、恐らく大丈夫だろうということだった。大事には至ってない様子で胸を撫で下ろす。
「ねぇクラピカ。ヒソカが言ってたオレとレオリオが合格って一体……どういう意味だと思う?」
ゴンのどこか神妙な声色に、そしてその内容にはっと息を呑んだ。
(私と同じだ)
このゴンという少年も、そしてレオリオもか?
――ボクと同じだね――
カナタはじっとゴンの後ろ姿を感じる。清々しい、晴れ渡る空のように穢れのない魂だ。翳り一つなく、太陽がそこにあるみたいな溌剌としたエネルギーに満ち溢れている。
(これが、ヒソカと同じなわけないじゃない)
カナタが鬱々と考えている間にも、二人の問答は繰り広げられていた。
クラピカの考えはヒソカが自分に告げたことと全く同じで、思わずドキリとする。まるで、自分のあの感覚――常人には理解されがたいあの覚醒――それを、暴かれ晒され、それはヒソカと同類だと、レッテルを貼られた気がした。カナタのそんな心情など、クラピカ自身は知りもしないのだろうが。
カナタが塞ぎ込むのと同じように、言葉を受けて、ゴンは静かな口調で切り出した。
「……少しずつ分かってきた気がする。オレがあの時感じた変な気持ち」
クラピカとカナタは、ただ黙ってゴンの言葉を聞いた。
戦っても勝目がない。死を覚悟した。なのに、その時高揚を感じたという―― 感覚は違えど、死に直面した時の落ち着きが、自分と一緒だ。
(同じ、か)
けれど、ゴンのその心の底を隠さない純粋さは、本性をひた隠しにしている自分とはあまりにも違う。
「カナタも、そうなのか?」
「え?」
核心を突いたクラピカの言葉に、声がひっくり返った。
「ぼ、僕?」
「あぁ。カナタもヒソカと一対一の状況で逃れたんだろう。ということは、奴に認められたからじゃないのか」
「え、ヒソカと二人っきりになったの?」
いやな話の流れになった。しかも、二人きりとは。微妙な言い方をしてくれるゴンをちらりと見て、カナタは苦く笑った。
「まぁ……そうかな」
「そっか。あ、君って途中までキルアと一緒にいた子だよね? オレはゴン!」
チャンスだ。この自分に向けられた会話を断ち切ろうと、カナタは口角を上げて答える。
「僕はカナタ。……ところで、キルアは? 一緒じゃなかったの?」
「あぁ、うーん。レオリオの声が聞こえて、何も考えずに引き返しちゃったんだよね、オレ」
「じゃあ」
「うん、置いてきちゃった」
はははと気まずそうに笑うゴンは、けれど友人の危機に、自分を顧みることなく駆けつけたのだ。
それでも、キルアは。
(来なかったんだ)
絶対追いついて来いと言った、彼だったのに。
彼が背負う薄暗さと、あの生き霊のような、彼にまとわりつく邪悪な意思――
初めて出会った馴染みがある受験生だとしても、やはり白哉の言う通り、歩み寄るのは慎重にした方がいいのか。――そこまで考えて、自分自身の身勝手さに笑いそうになった。
(私が最初にキルアから離れたのに、来てくれなかったからって……なにを都合のいいことを)
せめて、彼が無事次の会場へ辿り着いていますように。
そう祈ることくらいは、許してほしかった。