いとしさで世界が傾ぎそうなほど




ちょっと休憩行ってくる。岩ちゃんの「おう」って返事に背を向けて、タオルを肩に引っ掛けた。正面扉を開けた途端、むわっと薫ったのは熱気。気圧されつつも踏み出すと、眩いばかりのコントラストが目を焼いた。

抜けるような夏の空。カキンッと響いた金属音に押し出され、放物線を描いて過ぎゆく白い点。蝉の声に混じって届く野太い声は、炎天直下を強いられている野球部だ。ゆらゆら揺れる陽炎の中、ボール同様遠くで動く白点が、入道雲を千切って散らしたみたいに映る。日射しを受けて砂金のようにきらきら輝くグラウンドは、そこはかとなく浜辺に似ていた。

しかし暑い。

滲む汗を雑に拭い、向かった先は外水道。蛇口を捻って間もない流水は当然ぬるく、本来の温度を取り戻すまで暫し待つ。そろそろかな。まだかな。もういいかな。何度か指で確認し、十二分に冷たく感じられた頃。腰を折り、俯けた頭をゆっくり浸した。眼前でコンクリートに当たって弾ける透明。後頭部から髪を透って染み渡り、肌を滑る清涼感が心地いい。

いくら屋内の部活、それも冷房使用が許されているとはいえ、人数・運動量ともに並じゃない。おまけに換気も必要で、天井は高いし広さもある。つまり効きがめちゃくちゃ悪くて蒸し暑い。もちろん野球部よりかは絶対断然マシだけど、まあサウナもいいところ。



―――ザリ。左側から聞こえた音に、視線をずらす。視界の端で揺れる葉陰を踏んだのは、焦茶色のローファーだった。


「お疲れさま」


キュ。水を止め、タオル片手に顔をあげる。誰か、なんて声でわかっていた。同じクラスの、バドミントン部の女の子。今年初めて知り合って、話すトーンとか速度とか、決して大きくはない瞳をきれいに細めて笑うとか。そんな些細なひとつひとつが、ふとした瞬間恋しくなって、ああ会いたいなって思える子。

付き合ってはいない。お互いたぶん好きだけど、今の距離感に不便はなかった。“恋人”なんて結び目で明確に縛ってしまわなくても、俺にとっての彼女はなんだか特別で、彼女にとっての俺もそう。目が合えば落ち着いて、言葉を交わせば周囲のすべてが背景と化す。夏の明度がやわらいで、暑さも少し薄らいで、蝉の声や風の音も遠くなる。言い得て妙な感覚だ。そうだなあ。世界に二人だけ、っていうのは、ちょっと安っぽいかなあ。


お疲れ、と微笑みかける。


「みょうじも部活?」
「ううん。今日は委員会」
「この暑い中、大変だね」
「及川もね。はい、これ」


笑い混じりの彼女の手から受け取ったのは、一本のペットボトル。差し入れなんかでよく登場するスポーツドリンク―――ではなく、あんまり見ない経口補水液。思わず「珍しいチョイスだね」と軽く吹き出せば「でしょ」と、得意気な笑みが返ってきた。


「保健室でもらったの」
「え、体調悪い?」
「違う違う。先生の手伝い。保健委員が来ないらしくて捕まっちゃった」
「あー……そのお礼にもらったの?」
「そーいうこと」


ごめんね。紛らわしかったね。

今の今まで楽しそうだった眉尻が、やんわり下がる。別にいいのになあ。思いながら「全然。みょうじが元気でよかったよ」と、バレーボールより随分ちいさい頭をよしよし撫でてやった。

みょうじはよく、優しいね、と俺を褒めるけれど、俺からすればみょうじの方が、ずっと優しい。さっきだって言葉のままに受け取ったなら“紛らわしい言い方をしてしまったことに対する謝罪”。でも本当はもうひとつ“心配させてごめんなさい”が含まれていた。多くは言わない。でも伝わってくる。俺限定か、そうでないのかは知らないけれど、自分よりも人の気持ちを尊重出来る純真さが、自ずと頬を弛ませる。


「及川の手、大きいね」
「そりゃあおまえよりはね」
「いいなあ。屋台の掴み取りとかいっぱい取れそう」
「嘘でしょ。そこ?」
「そこ」


まだ半年だって経っていないのに、長い間一緒に過ごしてきたかのような、岩ちゃんとはまた違った安穏が心をくすぐる。彼女特有の長閑やかなぬくもりに、ついつい触れていたくなる。

葉陰の中、白い肌を汗が伝う。

さあ、そろそろ帰してやらないと。俺も部活に戻らないと。頭ではわかっているのに、どうしてか感性が弾いてしまう。じゃあまたねって言うだけ。たったそれだけがこんなにも名残惜しいのは、また明日、が約束されていないからか。生徒の数がまばらな今は夏休み。

バレーボールは毎日出来る。長期休暇だろうと諸々関係ない。でもみょうじとは会うことさえもかなわない。今日みたいに差し入れを渡すとか、なにか接点が必要だ。なにがいいだろう。経口補水液のお礼は、きっと余計な気を遣わせる。部活見学のお誘いは始終構ってやれるわけじゃなし、ただ見るだけになってしまうから気が引ける。それに、他の男に見せたくなかった。三年生は仕方がなくても、彼女の存在を知らないだろう下級生に教えてやるほど馬鹿じゃない。さて困った。


「…………」
「及川?」


たとえば俺たちが“恋人”だったら。もしそうだったなら、会いたい、ってだけで足りただろうか。もっともらしい理由なんて探さなくても、会えただろうか。


「ちょっと及川? どうしたの?」
「……、なんでもない。にしてもほんと暑いねー今日。いい休憩になったし、そろそろ戻ろっかな」


未だ髪に触れたままの手を浮かせ、背中を伸ばす。仰いだ空は鮮やかだった。綿あめみたいな入道雲が、ゆったりゆったり流れている。

部活がんばってね。みょうじが言う。ありがとう、気を付けて帰りなよ。建前だらけの自分の声は、あら大変。情けなくもよそよそしさが溢れてしまって、うん失敗。ななめ下からじいっと刺さる視線が痛い。長い睫毛がぱちりと鳴いて、鏡のような瞳は俺を捕らえたまんま。促すべきか、誤魔化すべきか。

迷っている内、先に口を開いたのは彼女の方。


「また明日ね」
「え、?」
「実は今日、体育館まで見に行くつもりだったの。でもここにいたから、行かなくてもよくなっちゃった」
「……そう」
「うん。だから明日はバレーしてる及川、見にくるね」


白い歯を覗かせて、花のように、けれど悪戯に笑ったみょうじは「じゃ、お昼までには顔出すから」とチェックのスカートを翻し、きらきら光る砂浜の中を駆けて行った。アリスブルーの華奢な背中が、海へ溶けゆくようだった。


fin.


Dear.「双子」甘粕さん
2021.07.30 - 祝*50万打&もうすぐ2歳!




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