果ては無いと笑う夢を見た




肌寒さで目が覚めた。リーリー、リッリッ。網戸を抜ける虫の音が、私の意識を呼び戻す。室内は、窓から広がる光によって薄ぼんやりと色づいている。けれどそんなに明るくない。そうだな、しいていえば間接照明くらいかな。たぶん夜は明けている。皮膚に触れる風も空気も匂いもすべて、朝の気配を孕んでる。まるで灰色がかった湖畔のよう。

私の隣、ひだり側。触れたシーツはまだあたたかく、暖を求めて額を寄せる。ついさっきまであったはずの温もりは、いったいどこへ行ったのか。少なくとも眠る時はここにいた。腕の中へもぐる私を許してくれるぶっきらぼうな優しさと、潰さないようこわごわ包むつたなさと、それから肌を通じて脈打つ鼓動が途端に恋しくなる。


はじめの彼女に選ばれてから、私は大きく変化した。良くも悪くも、とても贅沢になっていた。


『伝えるだけで満足すんのは、なまえの美点だと思う。けど俺も応えたい。もらいっぱなしは性に合わねえし、なんか……かっこわりぃだろ。男として』

『なまえが喜ぶこと、正直まだよく分かってねえから教えてくれ』

『何かしてやりてえってのは俺も同じだ。だから遠慮すんじゃねーぞ。おまえの言うわがままなんか、及川に比べりゃ可愛いモンだしな』


欲しいものは欲しいと口に出していい。自分が愛した分だけ愛されたいと望んでいい。流れ星にはきれいな未来を願っていい。不安を抱くことはない。懸念も遠慮も棄てていい。気兼ねなんてなくていい。ただ不変的な心をお互い分け合って、同じ方へ同じ気持ちで歩んでいきたい。駆け足じゃなく、一歩ずつ。なにか起きても支え合える関係性を築いていけたら理想的。

そんな風にゆるくやわく甘やかされて、劣等感と諦めばかりで八方塞がりだった私の世界は一変。はじめが好意を告げてくれたあの日から、ずっとずうっと陽だまりの中で生きている。そりゃあ旅行じゃなしにアメリカへ飛ぶと言われた時は、ちょっと泣いてしまったけれど、でもそれだけだ。寂しくないよう、ありとあらゆる最善の手を尽くしてくれた。苦手な電話を毎日欠かさずかけてくれたり、イベントごとがある日は帰って来てくれたり。とにかく努力に努力を重ね、今まで身を引くことが当然だった私を必死に繋ぎとめていてくれた。

簡単にいうなら理想の人。なまえが好きだ、と恥ずかしそうに隣で笑ってくれる人。もうひと眠りしたくらいには旦那さんへと変わる人。未来を共に歩む人。はじめを表す言葉がだんだん増えていくのは、なんとも贅沢で幸せだ。



意識がとろとろ溶け出した頃、圧縮された足音が、さざ波みたいにやって来た。僅かな吐息に空気が揺れて、シーツを擦りつつ沈んだ温度は子供のようにあったかい。きっと筋肉量が多いから。身じろぐ度に伝わる振動が心地いい。

不意に抱き寄せられて気付く。どうやらお手洗いだったらしい。頭をよしよし撫でゆく大きな手のひらだけが、ひんやりしていて新鮮だった。


title 溺れる覚悟




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