どうやらこの前髪は、そんなたったの数秒で彼の心を射止めたらしい。無理もない。なんせ傷みが少ない部分。おまけに昨晩、切ったついでにトリートメントを馴染ませたから、いつも以上になめらかな仕上がりだ。授業の合間はもちろんのこと、ちょっとしたすれ違いざまにさえ無骨な指の背が伸びてくる。散らすことも乱すこともしないまま、上辺だけをさらうように滑りゆく。
「気に入ったんやね」
「んー……なんかな」
前の席に座った治は、口端をゆるめて苦笑した。けれど指は離れない。ただ「嫌やないやろ」と私の心を見透かして、ぽんぽん。あったかい手のひらで今度は頭を撫でていった。「こっちのがええ?」なんてもう。皆の前で言わさんとって。二人っきりの時にして。
「なまえ?」
覗き込むように屈んだ声音が「照れとんの」と、笑いまじりに鼓膜を揺する。「可愛ええな」って想い溢れる眼差しが、私だけを包み込む。他の子なんてもう見えない。話し声や靴の音、外から吹き込む漣みたいな喧騒すらも、私と彼をよけて通った。
title 甘い朝に沈む
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