「徹」
「……来てたんだ」
遠くで実況が流れる館内通路。特別大きな声を出したわけでもないっていうのに一声で振り向いた徹は「連絡くれたら良かったのに」と、口端を引き上げて笑った。
「いるかどうか分かんない方が良いかなって」
「お前いつもそう言うね」
「彼氏の勇姿はこっそり見たいからね」
悪戯に微笑みかければ、形の良い眉が少し下がった。苦笑とも虚勢ともとれる不恰好な笑い方は、彼のプライドを律する相棒が隣にいないからだろう。
「なまえ」
呟くように降ってきた低声が床へ落ちる。すり、と目元をやわく撫でた無骨な指は、私の言葉を待っていた。
気休めは言わない。頑張ったねとか、かっこよかったよとか。そんなものはファンから好きなだけもらえばいい。彼なら別にねだらなくたって、多くの可愛子ちゃんが差し出してくれる。たとえそれが心の内側まで響かずとも彼女達は満足だろうし、徹も、いつも通りの笑みとお礼を返すことで“天才”の均衡を保つ。
だからそこに私は必要ない。私以外で事足りる場所へ、わざわざ割り込もうだなんて思わない。お互い理解している。誰より転んで這い蹲って、それでも一度だって救いを求めなかったこの手が欲しいもの。
“秀才”に与えるのは、たった一言でいい。
ねえ、徹。
「お疲れさま」
“いつもありがとう”は聞かないよ。
だからなんにも、言わないでいいよ。
title 四月
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