潜熱と余音




気恥ずかしさが、ふわりと芽吹く。

ぴったり合わさった机の真ん中には、私が忘れてきてしまった国語の教科書。予鈴が鳴ってから気付いたせいで、借りに行くことも出来ず凹んでいたところ、隣席の治くんが助けてくれたのだ。「見る?俺のんで良かったら」って。


いつもより一列分近付いた席に、当然、思春期真っ只中な周囲が反応しないわけはなく。けれど「自分ら仲ええなー」なんて冷やかしは、至って普段通りの治くんによって軽く流された。突っぱねることなく怒りもしないのは私に対する配慮か。ちょっと申し訳なくて、くすぐったい。

日直が重なり、ただでさえ多くの言葉を交わすことが出来ている今日。なんだか一生分の運を使い果たしているような気がする。黒板の右端。日直当番のところに名前が並んでいるってだけで幸せなのに、こんな良いことばかりで大丈夫か。星占いなら、きっと満点五つ星。

幸い先生には突っ込まれることなく穏便に始まった授業だけれど、全然頭に入ってこない。そんな中、骨格の窺える男の子らしい指が伸びてきて、ちょんちょんと小指をつつかれた。


「シャー芯持ってへん?」


控えめな視線と潜められた声。どくんと跳ねた心臓に慌てて蓋をし「0.5やけど」と小声で答えながら、HBの青い替芯ケースを渡す。まるで内緒話をするような治くんの声が、すぐそこで和らいだ。ほんの少し目元を緩め、小さく微笑んでくれる。私だけが独占出来ているかのような錯覚は、贅沢もいいところ。

遠慮がちに一本だけ取って返そうとする手を制し「予備も取っといて」と、プラス数本促した。別にシャー芯くらいどうってことない。そもそも教科書を見せてもらっている身。「有難う」は、こっちの台詞。



いつの間にか随分進んでいた板書を慌てて写す。カチカチカチ。芯の出具合を調節しているのだろう。シャーペンをノックする音が聞こえたかと思うと、視界の端から再度伸びてきた治くんのペン先が、私のノートに円を描いた。

球体のようなそれに足がつき、五本指を広げたバンザイ状態の手が生える。バレーボールのイメージキャラクターだろうか。絶妙な下手さ加減がなんとも言えず可愛い。やけにきゅるんとした目が追加され、枠外上部に『\ウレシイ!!/』。それだけでちょっと面白いのに、狭い額の真ん中に『俺』と書き足されれば、もう堪えきれなくて。

思わず吹き出してしまったが最後、耳聡く気付いた先生に名前を呼ばれた。「めっちゃ楽しそうやな。次読んでもらおかー」だなんて、違うんです。仕方ないから読みますけど、茶目っ気たっぷりな治くんがずるいんです。


「ごめん治くん、どっからやっけ?」
「二行目改行んとこ」
「みょうじー」
「はーい読みますー」


先生に急かされ腰を上げる。教えてくれた治くんには教科書で隠しながら片手を立て、感謝と謝罪を示した。微笑んでくれたから、たぶん伝わったと思う。そうして適当に読み終えたところでチャイムが鳴った。六時間目終了のお知らせ。

しまわれたシャーペンに、閉じられた教科書。ガタガタ離れていく机。


「有難うね」
「ええで。俺も有難う」
「?」
「シャー芯」
「ああ、全然。いつでも言うて」


もう少し、だなんて欲張りな名残惜しさは、感謝の気持ちで掻き消した。一生捨てられそうにない、彼の直筆イラスト入りノートをカバンへ滑り込ませる。

本当に申し訳なく思っているけれど、正直、教科書を忘れてきてよかった。たっぷり一時間、素敵な思いをさせてもらった。




間もなく始まった終礼もそこそこに黒板へ向かう。皆が帰っていく中、後ろをついてきた足音。踵を擦るような歩き方で分かる。治くんだ。

彼が上の方を消してくれるのは、もはや暗黙の了解だった。背が高いって羨ましい。どうせ私じゃ届かないから素直に甘え、せめて日誌くらいはって申し出る。でも「二人でやった方が早いやろ」ってマシュマロみたいな優しさに、ふんわり吸収された。


先に戻った背中を追う。


「部活いける?怒られへん?」
「日直でしたー言うたらいける。北さん……ってうちの主将なんやけど、当番とかちゃんとせえって言う人やし、嘘ちゃうって証人もおるしな」
「証人……あ、角名くん?」
「おん。あとなまえ」
「、」


あーあ。不意打ちって心臓に悪い。乱れた心拍を宥めすかすのは、これが初めてじゃあない。


――“宮くん”ってややこいから名前で呼び合えへん?

そんな提案にびっくりしながら頷いたのは、確か夏休み前だった。あれから随分日は経って、もう冬支度。それでも未だ慣れやしない。どんな喧噪の中でさえ真っ先に聞き分けられる淡白な声は、時折こうして動揺を誘う。ひどく単純な私を熱する。


「なまえ?」
「っ、ごめん、日誌やんね」


首を傾げた治くんは、けれど私が席に着くと、前の空席に移りながら時間割りを言ってくれた。教科担当の名前や授業内容、遅刻や欠席者名を記入し、自由コメント欄で手が止まる。困った。何も思いつかない。こういうのって苦手。救いを求めて顔を上げれば、頬杖をつきつつ見守ってくれていた灰色の双眼が上目に向けられる。


「どの授業も皆真剣に取り組んでました、でええんちゃう?課題多てしんどいけど頑張ります、とか」
「さすが治くん。頼りんなる」
「……おん」


幾分かぶっきらぼうな相槌と共に逸れていった視線。ほんのり染まった耳は寒さのせいじゃなく、たぶん照れていた。褒められ慣れていないのか、あるいはさっきの私みたいに、彼にとって不意打ちだと思える何かがあったのか。顎を支えたままの片手で、器用に口元を隠す姿が微笑ましい。

とくとく高鳴る恋情を胸に秘め、ペン先を走らせる。もらった二文で枠を埋め、残すは職員室への提出のみ。もう私一人で大丈夫。


「いろいろ気ぃつこてくれて有難う。出しとくから部活行ってきて」


一瞥を寄越した治くんは短く息を吐き、それから立ち上がった。隣に置いたままのエナメルバッグを肩にかけ「勘違いしとうみたいやから言うとくけど」と続ける。


「俺そんなお人好しちゃうし、なまえにだけやで」


交わった視線。気だるげな瞳。降り立った静謐も束の間。軽く髪を掻き撫ぜられ、鼓膜のすぐ傍で鼓動が波打った。まるで全身が心臓になったみたい。火照った血液が皮膚の下を巡って、全部が熱い。どうしていいか分からない。口を開いたところで、きっと名前くらいしか呼べないだろう。

大気も音も、外界の何もかもを遮断する治くんの言葉が、ただただ脳裏でこだまする。

何も言えないまま。それでも彼は嫌な顔一つせず、どころかちょっと笑ってくれた。無骨な指が、髪の間を滑りおりる。


「気ぃつけて帰りや。また明日」


空気が揺れた、離れ際。私の手元から抜き取った日誌を軽く振ってみせたその背中は、すぐに見えなくなった。


fin.


Dear.「サンドイッチ」たまごさま*お友達記念
request>>教科書を忘れて治くんに見せてもらう・日直のペア等、隣の席のお話でお任せ




back