安心して待ってます




「ねえここ分かんない」
「あー、それは……」


とんとん、と問題集を叩くペン先を目で追う。一つ一つ丁寧に説明してくれるはじめは、私が理解すると褒めるように頭を撫でてくれた。


部活を引退して大学受験が迫っている今、学校終わりにはじめの家で勉強することが恒例になっている。お邪魔します、いらっしゃい、なんて他人行儀な挨拶を交わしていたおばさんにも、最近じゃ“お帰り”と言ってもらえるまでに進歩した。彼女としてはまだ紹介されていないけれど、そんな日も遠くはないと思えるくらい、我ながら岩泉家へ馴染んできているように思う。夕飯をご馳走になる日も勿論少なくない。


「そういえばこの間、うちのお母さんがお礼しなきゃって言ってた」
「お礼?」
「いつもお邪魔してるし、ご馳走になってる分だって」
「ふは、そんな大した飯食わせてねえべ」


おかしそうに笑うはじめにつられ、私の頬もだらしなく緩む。お互い忙しくてろくに会えなかった今までとは違う、まったりとした贅沢な時間。胸に広がる温もりは嬉しさか愛しさか、はたまた両方か。

最初の頃はわざわざ冷やかしに来ていた及川も、私達が動揺しなくなった辺りから何となく面白味に欠けるようで、もう窓を越えて遊びに来たりしない。おかげで随分と二人っきりが増えた。緊張することも殆どなくなって、何から何まで幸せばかり。


「明日は家に居るの?」
「おう。空いてる」
「じゃあケーキでも持ってくるね」
「そんな気ぃ遣わなくていいぞ。娘が出来たみてえだって喜んでるし」
「ほんと?娘感あるかな」
「あるある」


そうか娘か。いつかはそうなれると良いなあ。

緩みを通り越してにやけていく頬を両手で覆う。参考書に視線を落としながら、くるりと指でシャーペンを回したはじめは「いつ岩泉になんだって言ってるくれえだから心配いらねーよ」と、思わず聞き流してしまいそうな、何なら『今日の晩ご飯はカレーです』くらいの平然さで言ってのけた。思わず普通に返事をしてしまうところだったけれど、はじめくん。それ結構爆弾的発言ですよ。既に英文を解き始めている辺り、全く気付いてないし意識もしてないだろうけど。


「……はじめさ」
「んー?」
「岩泉なまえにしてくれる気なの?」
「おー。元から半端な気持ちで付き合って、ねえ、し、………」


べキッ。
シャーペンの芯が折れた。はじめの。


「わりぃ。今の忘れてくれ」
「え、嬉しかったのに」
「頼むから忘れろ」
「男に二言は?」
「ねえけど……もっと、ちゃんと言う」


きっと恥ずかしさで死にそうなんだろう。目いっぱい逸らされた顔は窺えないけれど、短い髪から覗く耳はほんのり赤く染まっていて。「だから待ってろ」と小さくこぼされた声ですら、私の心臓をきゅんきゅん締め付けるには充分だった。



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