きみとぼくの最優先




「何読んでんの」って声に、ハッとした。活字が並ぶ紙面から慌てて跳ね上げた視線の先。銀色をしたベルトのバックルがきらり。閉ざしていた聴覚が呼び覚まされ、周囲の喧騒が戻ってくる。

そう言えば、教室だった。

意味を為していないワイシャツのボタン。クーラーの風に靡く薄い生地と黒いTシャツを辿った末、ずいぶんと上の方で交わった大きな瞳が、ほんのり細まる。きっと元来の顔立ちだろう。いつも上がっているように見える口角が可愛くて、ちょっと羨ましい。


「やっとこっち見た」
「ごめん、何回か呼んでくれたよね」
「んーん。呼んだのはさっきが一回目ー」


にんまり笑った天童くんに首を傾げつつ、取り敢えず「良かった」と胸を撫で下ろす。

つい本の世界へ入り込んでしまうのは、昔からの悪い癖だった。今まで何度友人の声を無視してしまったことか。自分でも信じられないことに、肩を叩かれるその瞬間まで気付けないのだから困ったものだ。たとえ先生だろうと親だろうと、読み始めてしまったらもうダメ。僅か一瞬にしてあらゆる音がスッと凪ぎ、降り立った静謐が意識を囲う。でも天童くんの声だけは、どうやら一回で届くらしい。


「もうお昼食べた?」って声に頷きながら、栞を挟む。この間迎えた誕生日に贈ってくれた、文庫本サイズの透明な栞。プロの写真家撮影の赤い金魚が印刷されていて、こうして挟むと本の中で泳いでいるように見えることから、読書好きの間では有名な逸品だ。

目敏く気付いた彼は嬉しそうに笑い、ご機嫌な様子で隣のイスを引っ張ってきた。


「天童くんは食べたの?」
「うん。若利くんとこで食べてきたよ」
「相変わらず仲良しさんだね」
「まあ一番はなまえちゃんだけどねー」
「ありがと」
「どーいたしまして」


悪い人じゃない。でも、なんだか掴めない。知り合ったばかりの印象は、そんな程度だった。バレーボールの特待生なだけあって当然背が高く、皆の輪にいると綺麗な色の頭がぴょこんと出る。だから自然と目につく男の子ではあったけれど、たぶん日直以外の接点なんて生まれないだろうなあって思っていた。

まさか好きになってくれるだなんて勿論予想しなかったし、初恋さえ未経験の私が誰かを好きになるだなんて、あの頃は想像も出来なかった。



「ねえ天童ー!」
「んー?」
「ちょっと来てー!」
「何でー?」
「いいからー!」


話しやすくて愛想がいい。思ったことはハッキリ言うし辛辣な一面もままあるけれど、基本、友達は大事にしているように見える。暇さえあれば教室の隅っこで活字と触れ合っている私と違って、社交的な彼が呼ばれるのはそう珍しくない。でも今は、せっかく天童くんの方から作ってくれた時間だ。易々手放してしまうのはなんとも惜しい。

無意識に伸びていた指先が、彼の甲へ触れる。気付いた天童くんは一瞬瞠目し、それから私の眼を覗き込むように顔を寄せた。


落ちた影。狭まった視界。息遣いさえ聞こえてしまいそうな距離で、小さく動く薄い唇。


「行かないよ。どこにも」
「、」


心臓が跳ねる。悪戯な瞳が満足気に微笑み、反転した大きな手に手を握られ、逃げることさえ叶わない温度が溶けて、滲んで――。


廊下の方へ向き直った天童くんは「今手ぇ離せねえから後でねー!」と。まるで当たり前のように私を優先してくれた。


(Special Thank’s*いまむらさま)




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