願った幸福のにおい




気圧の変化と鼓膜を塞ぐ轟音に慣れた頃、円形の窓から雲を見下ろし地球の反対側へ思いを馳せる。何がいいかなって、あいつが好みそうな物を考える。服や靴、アクセサリーに化粧品エトセトラ。滅多に会えない距離だからこそ、思い出作りもしてやりたい。温泉付きの旅館もいいし、遊園地だって捨てがたい。ああ、水族館でもいいな。確か好きだったはず。

涼しいからってデート先に選んだ高校三年の夏休み。縦にも横にも俺何人分あるの?ってくらい大きな水槽で足を止めた、あの日のなまえを思い出す。繋いだ指をきゅっと握って、こちらを見上げる瞳の中。光とともにゆらゆら揺れる水影が、ひどく綺麗に映えていた。

なつかしい。自然と緩んだ口元をマスクで隠す。狭い座席に座り直し、腕を組んで目を閉じた。





「……なまえ?」
「ふふ、変な顔」


流れてきたキャリーを取って到着ロビーに出てびっくり。約束している午後八時までは余裕があって、しかもまだ仕事中なはずの愛しいなまえがそこにいた。見ていたスマホをカバンにしまい、可笑しそうにくすくす笑う。なんとも悪戯に弛む目元が、ご機嫌さんで可愛らしい。ケーキやプレゼントを買いに行こうと思っていただけに少し苦しい誤算だけれど、まあいいか。

毎日電話はしているものの、こうして会うのは正月以来の五ヶ月ぶりだ。髪、ちょっと伸びたね。


「時間言ってたっけ?」
「ううん。でも例年通りかなって」
「仕事は?」
「午前で切り上げてきた。せっかく帰ってきてくれるんだもん。早く会いたくって」
「、……」


ああ、なんだろな。胸の底からこみ上げてくる、なんともいえないこの感じ。好きで好きで仕方ない。あたり構わず抱き締めて、俺も会いたかったよってキスしたい。でも耐えた。職業柄、軽率な行動は高確率で火の粉になる。いくらプライベートで帰国しているとはいえ、どこにパパラッチやファンが潜んでいるとも知れない。俺はどうせアルゼンチンに戻るからいいけど、万が一なまえの顔が割れてしまったら大変だ。たぶん彼女も分かってる。だから今日、わざわざキャップ帽なんてかぶってきたのだろう。学生の頃からそうだった。よく気がついて、身勝手で面倒くさい俺のこともちゃんと見ている聡く賢い女の子。


「有難う。嬉しいよ」


そう微笑んで京急空港線へ向かう。待っていた急行に乗り込み、くっつきたいのを我慢しながら殆ど無言で乗り換えた。

アルゼンチンからの直行便がないことを考慮してせめて国際便が着くところ、と都内で就職してくれたなまえの家へお邪魔するのは年に一度。彼女の誕生日である五月二十日から数日間だけ。正月はお互い実家。そんなわけで、いつもちょっと緊張する。


「どうぞ」
「お邪魔しまーす」


フローリングを傷付けないようキャリーを持ち上げ、部屋の端へゆっくり寝かせる。振り向いた先では、なまえが帽子を取っていた。髪を整えながら「どうかした?」と首を傾げて寄ってくる。こっちはそろそろ限界だってのに、余裕そうな素振りがどうも気に食わなくて。だからしゃがんだまま、ちょっと強引に華奢な体躯を抱き込んだ。


「っちょ、とおる! 締まっ、締まってる……!」
「うん。締めてるからね」
「!?」


離してなんかやるもんか。力加減はもちろんしている。だって本気で締めたら絶対折れる。中学くらいから出始めた男女の差は、高校より更に顕著で歴然だ。俺は鍛えているし背も伸びた。でもなまえはどっちかっていうと、事務仕事ばかりで筋力が落ちたように思う。それくらい、なんとなく触れば分かる。

まあそんなことより、お前は平気だったの? 早く会いたかったくせにさ。


「空港で会った時から、こうしたくて仕方なかった」


やわい体をぎゅうっと抱き締め、伝わる温度を許容する。鼻腔を掠める甘いにおいは、以前俺が虫除けになればいいとプレゼントしたメンズものの香水で、つけてくれてるんだって嬉しくなる。そんな些細なことだけで、鼓動がとくとく速くなる。

ゆるく息を吐いたなまえは「私もだよ」と、優しく俺の名前を呼んだ。小さな両手が背中へまわり、甘えるように擦り寄られ。触れ合う皮膚がじんわり熱を孕んだ頃、愛しさだけが風船みたいにふくれ上がる。


「ねえなまえ」
「ん?」
「本当はなまえと会うまでにプレゼント選んでケーキ買ってって思ってたんだけど」
「あ、だから到着時間言わなかったの?」
「うん、そう。……けど会えちゃったからさ、一緒に見に行かない?」


ほんの少し身を引いて、俺の首元から浮いた顔を覗き込む。上目がちな双眼がやんわりゆるみ「うん。行きたい」って綺麗に笑った。

普段口にはしないけど、きっと寂しい思いばかりさせてしまっているだろうから。せめて君が生まれ落ちた今日くらいは俺の手で、世界の誰より幸せにしてあげたいと思う。


「誕生日おめでとう、なまえ」


fin.


Dear.「双子」甘粕さん
2021.05.20 - Happy Birthday*




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