なめらかに寵愛




手を繋ぐ。抱き締める。キスをする。

どれもこれもハードルが高いなあって思いながら、ページをめくる。窃野が持ってきてくれた雑誌は、ファッションやトレンドコスメはもちろんのこと、初デートから避妊に至るまで幅広い体験談が掲載されていて、世間一般でいう恋人同士の様相が良く分かる。


まあ、一般的でない人と恋をしている私には、残念ながらあまり関係がない。

とはいえ、付き合う前から分かっていたことだ。好意に気付いた時と、私の一生を捧げるって決めた時の計二回。しっかり意志は固めてある。恋人らしく振る舞えないことから彼の為に死ぬことまで、それはもういろいろ考えたし、覚悟も出来ていた。


「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」


帰ってきた治崎さんに合わせて腰を上げる。今日もお疲れさま。受け取った上着をハンガーにかけて振り向くと、ネクタイを緩めていた。ただ指を引っかけているだけなのに、こんなに様になる人が他にいるだろうか。

かっこいい、と見惚れて気付く。その視線が向けられているのは、あろうことか開きっぱなしの雑誌。しかもページ内容はキス特集。


なんとなくの恥ずかしさに、顔が熱くなる。「窃野が持ってきたんです」と言い訳じみた言葉を発してみたところで返事はなく、視線をそのままに寄越されたのは、役目を終えたネクタイだけ。


ああ、変な勘違いをされたらどうしよう。嫌な気持ちにさせたらどうしよう。静かな横顔からは、彼の考えなんて読めやしない。

あまりの沈黙に耐えかねて名前を呼ぶ。
ようやく顔を上げた治崎さんは、いつも通りの淡々とした低音で「したいのか」と言った。何を、だなんて愚問だ。ああ、どうしよう。


「したくないと言えば、嘘になります、けど…」
「けど?」
「…治崎さんの蕁麻疹が出なくなるまで、待ちます」
「随分と気の長い話だな」
「ぅ……だって嫌でしょう?痒くなるの」
「当たり前だ」


スパッと言い放った治崎さんに、肩を落とす。全くといっていいほど興味がなさそうだ。ほんの少しだけ顔を覗かせた期待は、大人しく引っ込めておいた。珍しく話題にするものだから驚いたけれど、やっぱりダメだよね。遠回しな”キスがしたい”って答えを鼻で笑われなかっただけ、まだマシか。

雑誌を閉じて、はずされたペストマスクを定位置へ置く。相変わらずの綺麗な口元は、すぐにいつもの黒マスクへ隠されてしまった。


「なまえ」
「はあい?」
「風呂には入ったのか」
「?はい。ついさっき」
「そうか。ならいい」


何がいいんだろう。

浮かんだ疑問は、しかし口にしないまま呑みこむ。多くを聞かない、無用な詮索をしない。それら二つは、彼と一緒に過ごす上でとても重要だった。そんなことよりも、明日の予定確認をしなければ。

脇の棚からスケジュール帳を出した時、手袋をはめたままの手が視界に映る。迷いなく伸ばされた指先が輪郭をなぞり、再び疑問が浮上した数秒後、緩やかに顎をすくい上げられた。

唇に触れたのは、スムースな不織布。


「…今はこれで我慢していろ」


すぐに離れた治崎さんは、少し眉を潜めて口元を指先で掻いた。マスク越しとはいえ、やっぱり痒みが出るのだろう。

譲歩してくれたって、ことだろうか。私の為に。私が我慢している分、治崎さんも我慢してくれたって。ねえ、どうしよう。雑誌に載っていたような甘酸っぱさよりも、もっと大きな多幸感がふくれあがる。お礼を言わなきゃって頭では分かっているのに、詰まった喉は震えてくれそうになかった。




※夢BOXより【治崎とマスク越しにキス】




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