限定的エトセトラ




広いお屋敷の奥。
とても静かな一角にある襖をそっと開ければ、薄暗い室内の中、厚みのある布団が見えた。

呼吸と共に上下している速度はひどく緩やかで、彼がまだ眠っていることを知る。今日は昼に会合があるっていうのに、寝坊だなんて珍しい。皆で花札をしながら待っていたのだけれど、やっぱり見に来て正解だった。


なるべく音を立てないようにお邪魔して、大きな背中を揺らす。


「治崎さん、治崎さん」
「……」
「起きてください治崎さん。今日はお昼の会合ですよ。治崎さん」
「ん"、」
「今十時半ですよ」
「…んー…」
「あと一時間で出ますよ。早く起きないと間に合いませんよ」
「……まだいい…間に合う…」
「ほんとに?三十分で準備出来ます?」
「…できる…」
「嘘吐かないでください。治崎さん朝シャンするじゃないですか。知ってるんですよ私」
「んー……」
「ほら起きてください。シャワーの時間なくなっちゃいますよ」


思わずこぼれたのは溜息。

いつもなら寝起きの声にうっとりしているところだけれど、幸い自制心が仕事をした。偉いぞ私。今はそんな暇なんてないのだ。どころか、割と切羽詰っている現状に、焦りが顔を出している。

寝坊助の背中をぺすぺす叩いてみたけれど、一向に起きる気配はない。こんなに粘るなんて、きっとお疲れなんだろう。
もちろん気持ちは重々分かるし、出来ることなら私もぐっすり寝かせてあげたい。でも今日はダメだ。お昼の会合には、組長と懇意にしていた方もいらっしゃると聞いている。

おまけに、こんな起こし方を許されるのは私だけ。他の組員であれば、たとえ玄野であろうと触れた瞬間に腕が消し飛んでしまう。寝起きの彼は、それだけデリケートだ。だからこそ、尚更ここで折れるわけにはいかなかった。


もう一度「治崎さん」と呼ぶ。
一応唸り声のような返事はするけれど、やっぱりその瞼が開くことはなくて。うーん。どうしたもんか。

これが窃野辺りなら、布団を引っぺがして水でもぶっかけてやるところだけれど、大事な若様にそんなことが出来るはずもない。というか、さすがの私でも消されてしまう。もはや自殺行為だ。うら若き華の二十代である内は、まだ五体満足で生きていたい。ちなみに、何の断りもなく直接肌へ触れるのもダメだ。確実に死ぬ。私が。


何か治崎さんの目が覚めるようなこと、と考えて数分。一つだけ良さそうな案が浮かんだ。ちょっと恥ずかしいけど、背に腹は代えられない。

向けられている背中へ近付き、一応肩口をつついてから身を屈める。邪魔な髪を耳へ掛け、控えめに寄せた唇で紡ぐのは、愛しい名前。


「廻さん」


びくり。

視認出来るほどに跳ねた肩は、案外すぐに動いた。どうやら効果覿面だったらしい。驚いた顔の治崎さんは、なかなか新鮮だ。


「おはようございます、治崎さん」
「ああ…おはよう」
「支度が出来たら来てくださいね。皆広間で待ってますから」


恥ずかしさを押し留め、なんとか平静を装ったまま微笑む。すっかり目覚めたらしい治崎さんは息を吐き、緩慢な動作で身体を起こした。そうして「分かった」と一言頷いた姿を尻目に、さっさと退散する。

静かに襖を閉めて、広間へ戻る手前。深呼吸をしながら、いつの間にか緩んでいた頬を引き締める。呼べたことより何より、治崎さんに怒られなかったことが、これ以上ないくらい嬉しかった。





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