せめてどうか、安らかに




やけに静かだった。

もっとも、元々多くを語らない女であり、時刻は零時をとうに過ぎている。当たり前と言われれば頷く他ない。けれど、ベッドの上で何をするでもなく座っているそいつは、確かに静寂の中枢であるように見えた。

月明かりに照らされた白い肌。感情ひとつ窺えない瞳は、どこか遠くを見つめている。窓から入った俺を出迎えるでもなく、いつものように靴を脱げと窘めるでもなく、ただ黙ってそこにいる。否、そこにいるのかさえ疑ってしまうほど、ひどく不安定で不鮮明だ。この部屋を覆う閑散とした寂寞に、胸がざわついて仕方がない。こんな時、どう声を掛ければ正解なのか。


「何かあったか」


考えたところで、月並みな言葉しか浮かばない自分の不甲斐なさに、心の中で苦笑する。まあ、間違ってはいなかったらしい。ただ空虚を見つめたまま、色のない唇が薄く開いて、たった一言こぼされた言葉は「よく、分からないの」。

瞬きひとつしなかった目が漸く伏せられ、長いまつ毛が影を落とした。


上品で賢く、度胸も気風もたっぷりな普段の姿からは想像も出来ない様子に、上手く嚥下出来ない何かが起こったのだろうことを悟る。

表の人間でありながら、常に強かなこの女を弱いと思ったことは一度もないが、少なくとも、今目の前で繰り返されているゆるやかな呼吸は、すうっと止まってしまいそうなほど弱々しかった。


俺のために敷かれてある雑巾の上。そこで靴を脱いで、歩み寄る。隣に腰をおろせば、安っぽいスプリングがぎしりと軋んだ。なんとなく、こいつの心のようだと思った。


「何が分かんねえんだ」
「……悲しみ方、かな」
「悲しいことがあったのか?」
「ええ……不幸事が」


相変わらず、小さくこぼされた声音にすら色はない。何も言ってやれないまま、華奢な肩を引き寄せれば「慰めて欲しいわけじゃないのよ」と言いながらも、大人しく凭れてきたことに安堵する。

せめて触れていなければ、やっぱりそのまま溶けてしまいそうなこいつを、どうしてか放っておけなかった。どうにかして、救ってやりたかった。まるで敵らしくない、自分でも違和感を覚える心境の変化に、そっと息を吐く。


まさか、遊び半分興味半分だったあんたが、こんなにも大切になってるなんて、俺もたいがいイカレちまってるなぁ。


「分かんなくて良いんじゃねえか」
「でも、涙も出ないのよ」
「泣くことが全てって訳でもねえだろ」
「そうかしら…。ただ薄情なだけかもしれないわ」
「仮にそうなら、今頃美味い飯食ってすやすやご就寝だろうよ」
「…それは、慰めてくれてるの?」
「さあな。ただ俺は、あんたが生きてて良かったって思ってる」


いつになく冷えている体をつとめて優しく腕の中へ引き寄せ、指通りの良い髪を梳く。シャンプーの香りに混じって、鼻をつくのは煙草の匂い。


「もう寝ろ。好きなだけ抱いててやるから」


俯いた顎を掬いあげ、何も言わない唇へ、自分のそれを重ねる。

何も言わないままで良かった。
何も言えないままで良かった。

どう捻り出しても陳腐の域を出ない俺の言葉など、どうせ響きはしない。ただあんたが俺の前から消えさえしなければ、またいつものように笑ってくれれば、そんな明日を思い描けるなら、俺が居ることで気休めにでもなるなら、不謹慎だろうと何だろうと、それで良かった。



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