ヴェールの下で飽和




清潔な白いテーブルクロス。耳障りのいい上品なクラシック。豪奢な照明を反射するワイングラスに注がれた深紅が、脚を組みかえる度、小さく揺らぐ。

目前には、一人分の空席。

今日のために新調したシンプルなライラックのドレスへ視線を落とせば、淡い光沢が、いっそ憎らしいほど滑らかに光っていた。服に対して頓着のない彼が、初めて良いなと口にしたロングドレス。
彼が誕生日にプレゼントしてくれたタンザナイトの輝きを首元に纏って、いつもよりよそ行きの化粧で綺麗に飾った今の私は、ここにいる、どんな綺麗なマダムにもレディにも見劣りしない自信がある。今日くらいは、それほど完璧な女でいたかったのだ。連絡一つ寄越さず、もう二時間も姿を見せない男の為に。


溜息はのみ込む。
待ちぼうけをくらっている哀れな女一人など、ウェイターですら気に留めていないだろう。それでも、煌びやかで浮世離れしたこの場には、とても不似合いな気がした。代わりに深く息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。

別に、遅くなったって構わない。
プロヒーローと教師を兼任している以上、やむを得ない事情もあることだろう。まだ二十代とは言え、私も社会人の端くれで、仕事に理解が及ばないような歳でもない。
でもせめて、連絡くらいくれたって良いんじゃないだろうか。たった四文字だ。おくれる。もうこの際、平仮名でいい。変換する必要のないその四文字を送るだけの時間さえ、私には割いてくれないのだろうか。それとも、そんなことさえ出来ないような状況なんだろうか。

胸を突くのは、悲しさと、不満と、呆れ。
それらを大きく上回る、心配と不安。


脳裏に浮かぶ最悪をかき消す。

背凭れに預けていた背中を浮かせ、真っ白なクロスに腕をそえた。緩く体重を預けながら、ベージュ色のネイルが艷めく指先で、細いガラスをなぞる。舌の上で遊ばせた赤ワイン。大層品のいい年代物だろうその味も、カラカラに乾いた口腔では分からない。


何でもいいから、無事でいて。

テーブルに置いた携帯を祈るような思いで握ったその時、聞き覚えのある靴音が一直線に近付いてきた。


「悪い、遅くなった」
「……」


顔を上げた私に、一瞬その三白眼を見開いた待ち人は「…申し訳ない」と謝り直し、気まずげに視線を逸らす。

このレストランに良く馴染む上品なスーツ。伸ばしっぱなしの長髪は纏められ、トレードマークにさえなっていた無精髭は綺麗に剃られている。どこからどう見ても、スマートでかっこいい大人の男。


なんだ、無事なんじゃない。

安堵に肩の力が抜けると同時に、膨れ上がる惨めさ、悲しさ、苛立ち、呆れ。なんだかもうよく分からないぐちゃぐちゃな感情に、から笑いがこぼれた。空腹を通り越した胃が気持ち悪い。


「何してたの?」
「…悪い、急な仕事が入って、どうしても抜けられなかった」
「そう。……二時間待ったわ」
「自覚している。本当にすまな」
「心配だった」


少し張った声で謝罪を遮る。
謝らせてなんかやるものか。

記念日指定で誘ってくれたディナー。この日の為に、一番綺麗な自分を仕立てて、見ての通りとても楽しみにしていた。ギリギリまで仕事があると聞いていたから、待ち合わせは諦めて現地の席でと配慮した。心を踊らせながら、座って待っていた。

五分、十分、二十分、三十分、一時間、一時間半、二時間。鳴らない電話。光らない通知。刻一刻と過ぎていく時間に比例して、どうしようもない不安が渦を巻いていった。仕事が長引いているのだろうか。急用が入ったのだろうか。忘れられてしまったのだろうか。それとも。


「貴方の身に何かあったらって、不安で死にそうだった」


吐き捨てるように放った言葉は、少しだけ震えた。息を呑んだ彼の瞳が、初めて焦りを孕む。

ごめんなさい。私、そんなに強い女じゃなかったみたい。
心の中で自嘲して、熱くなる目頭を誤魔化すように、味のないワインを飲み干した。


「無事で良かった。ゆっくり休んでね」
「っなまえ、」
「また改めましょ。今日じゃなくたって良いでしょう?」


携帯とバッグを手に、精一杯の虚勢でかためた笑顔を浮かべてから背を向ける。

今日じゃなくたっていい。その言葉は、八割自分に向けたもの。我ながら狡い言い方だと思う。
二時間も待たせた事実をしっかり受け止めて反省している彼に、呼び止める術などないことを把握した上で取り付く島すら与えないのだから、酷い女だとも思う。
愛想を尽かされても文句は言えない。けれど、だって、仕方がなかった。

今の私に、素敵なディナーを楽しめる余裕なんて、これっぽっちもないのだ。







ヒールの音が、濡れた路面に吸収される。
店内に流れていたクラシックのせいか、彼のことばかり考えていたせいか。雨音を耳にした覚えはないが、それなりに降っていたのだろう。そういえば、去り際に見た消太の肩が、少し湿っていたような気がする。


幾度となくのみ込んだ溜息を体外へ逃がす。
慰めてくれるのは、湿気を含んだ夜風だけ。

荒んだ心と落胆に満ちた脳内がようやく落ち着きつつあるというのに、顔を出すのは罪悪感や後悔ばかり。それでも、明るいショーウィンドウに映る私はやっぱり良い女で、全くもって見てくればかりが大人になってしまったと嫌になる。


「ダメだなぁ……」


タクシーを呼ぶ気にもなれない。バッグの中で震え続ける携帯には、気付かないふり。こんな時だけ電話するのね、なんて皮肉を口走ってしまいそうで、少しだけ怖かった。どんなに弱くて余裕のない女であっても、身勝手な愚痴や不満で、彼の眉間にシワを寄せるような真似はしたくなかった。


レストラン街を抜け、ぽつぽつ佇んでいる街灯が光を落とす夜道。穏やかな喧騒はいつの間にか遠のき、まるで全てから切り離されたかのような静けさが、余計な感傷を呼ぶ。

抑えたはずの涙腺が震えた刹那、ぱしっと掴まれた腕を振り払ってしまったのは、学生時代にすり込まれた条件反射ということで、どうか大目に見て欲しい。


「…気配消さないでよ」
「悪い、癖でな」


平然と言ってのけた消太は、再度私の手をとって風の当たらない路地へといざなった。相変わらず、冷たくて無骨な手。後から追って来ただろうのに、汗をかくどころか呼吸一つ乱れていない。プロの片鱗を目にしては惚れ直す度、こうしていつも、胸が苦しくなる。


月明かりに照らされたビルの狭間で、形のいい眉を引き下げた彼は「悪かった」と、頭を垂れた。

マスコミに責められ、画面の向こう側で腰を折った時のような、とても綺麗な角度。よりかは少し猫背だけれど、誠心誠意の謝罪であることは良く伝わる。これが、彼が思う一番合理的な対処であるということも同様に。甘い言動一つで絆されるような私ではないと知っている、賢い人。


「顔、上げて。怒ってるし悲しいし気持ちの整理もついてないけど、責めたいわけじゃないわ」


そっと手を添えた肩は、やっぱり少し湿っていた。

申し訳なさそうにしながら、緩慢な動作で顔を上げた彼の手を握り返す。どう声を掛けていいかも分からないまま、それでも何か言わなければと高い位置へ戻った顔を見上げれば、何も言うなと言わんばかりに唇を塞がれた。


「…俺が連絡するべきだった」
「……」
「不安にさせて悪い。お前なら待ってくれてるだろうって甘えはあったが、まさかそこまで心配してるとは思わんくてな」
「そんなの当たり前でしょ。ヒーローなんだから」
「そうだな。ガキのお守りばっかでとんでたよ」
「……バカ」
「すまん」


彼の口端が緩むと同時に、ふわりと空気が揺れた。優しさを孕んだカサついた指先。こめかみをなぞったそれが、頬を滑る。絡まった糸がほどけていくような浮遊感が、私を酔わせていく。

握られたままの手、交わったままの視線。不意に寄せられた唇で「仕切り直させてくれ」と囁く心地の良い低音。その全てに灯されたしめやかな愛情に、悔しいかな。募っていくのは愛しさばかり。


「…ごめんなさい」
「ん?」
「ちょっとだけ、意地悪した」
「ああ、別に構わん」
「…幻滅した?」
「まさか。そんなに心の狭い男じゃねぇぞ」


小さく吹き出した消太の目に、今の私はどう映っているのか。いくら背伸びをしても埋まらない歳の差が歯がゆくて、自己嫌悪と共に顔を伏せる。
月明かりに照らされたライラックが、綺麗に艶めく視界の片隅。きらりと光った覚えのないシャンパンゴールドに、はたと気付く。


「ねえ、これ……」


眼前に広げた左手の薬指。まるで私の為に誂えたようなぴったりサイズ。
緩やかな曲線の真ん中、控えめに輝くダイヤモンドの向こう側で、目を逸らしながら照れくさそうに項を掻いた消太は「次に持ち越そうか迷ったんだが……お前、見ない間にどんどん綺麗になるし、今日で三年だしな」と苦笑混じりにこぼす。全くもって柄じゃない褒め言葉に、いつもなら何か変な物でも食べたのって笑うけれど、止まりかけの思考でそんな余裕が生まれるわけもなく。瞳が、胸が、鼓動が、大きく瞬く。


「結婚しよう。これからも傍にいてくれ、なまえ」




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