流星たちの感度




ざらついた喧噪が流れていく。

バイバイ。また明日。この後予定ある?ちょっと個人練付き合ってよ。次の抜き打ちいつだろうな。小テストまじ無理。おい早く帰んぞ。


「じゃあねなまえー」
「うん。またね」


賑やかなクラスメイトが一人二人と帰路につく中、ひらひら手を振り返したなまえは付箋だらけの教科書を開き、お気に入りのシャープペンシルをカチカチノックした。俯くと同時に垂れた横髪を耳へかけ『point』『重要』『※』『?』等々書き加えては、時折蛍光マーカーに持ちかえる。そうして時間を潰しながら、ただ静かに。誰もいなくなった夕映えの教室で、無愛想な男を待つ。




――ガラリ。
開いた扉に顔を上げたのは、随分経った頃。


「すまん。遅くなった」


心なしか足早な靴音を連れ、目の前の空席へ腰を下ろした相澤に、なまえはくすくす笑った。照明を弾く陶器のような頬を綻ばせ、心底可笑しそうに。けれど楽しそうに。彼女の薄い唇がほんのり幸福を描く。

遅れたって構いやしなかった。ただ来てくれた。それだけで、いつだって単純な乙女心は満たされてしまえた。


「謝らないでください。約束してるわけじゃないですし」
「でもお前、待ってただろ」
「もちろん。今日も分からないことだらけですから」
「こら。堂々と言うな」


伏し目がちに、ほんの少し引き上げられる口端。
“仕方がない奴だな”なんて声が聞こえてきそうなその笑い方は、なまえのお気に入りだった。

こんな風に立場も年齢差もさほど邪魔をしない、たわいない安寧がずっと続けばいいと思う。でも残念。何においても鈍いらしいこの男は、やっぱりどこまでも先生の顔をする。

頬杖をついた相澤は、丁寧に色分けされた活字とやや崩れ気味のクエスチョンマークを見下ろし「で、今日は何が分からないんだ?」と、お決まりの台詞を差し出した。




なまえの質問に対し、端的かつ合理的に答える低音が、濃紫へ染まりゆく空間を占める。風の音も鳥の声も今は聞こえない。普段やわらかく弛む彼女の瞳だって真剣そのもの。紙面を滑る無骨な指の先をなぞり、理解するに十分な解説を書きとめた猫柄付箋をぺたぺた増やす。

わざわざ教えに出向いてくれた先生に失礼がないよう、なまえもまた、生徒としての体裁を崩すことはなかった。だって『時間は有限』と常日頃口にしているあの先生が、連日自分の面倒を見てくれている。それが“特別”であることを良く理解しているからこそ、不安が押し寄せることも、焦燥が胸を掻き立てることもない。

もちろん、懐いていったのはなまえからだった。教え方が分かりやすく好意的である先生を捕まえるべく放課後の職員室へ毎日通っていたのは、そう古くない記憶として、未だ鮮明に残っている。それがいつの間にか「今日も何かあるのか?」と相澤の方から聞くようになり、足を運ぶようになった。

何を言わずとも、求めずとも、小指なんて交わさずとも。なまえが待っていることを相澤は知っていたし、相澤が来てくれることをなまえは分かっていた。たとえ形のない不確かな感覚であっても、互いにとっての当たり前が同一である実感はひどく優越的で心地がいい。少なくとも今この瞬間、相澤はなまえだけのものであったし、なまえも必然、相澤だけのものだった。



入学当初に比べ、数センチ伸びた髪。小さな耳から滑り落ちた濡羽色を男の節張った指がかけ直す。驚いたなまえの顔が跳ね上がった。風音が舞い戻り、遠くに聞こえる虫の音が夜を呼ぶ。


「先生?」
「ん?」
「……」


無意識、だったのかな。

いつもと変わらない淡白な双眼が不思議そうに傾いた次の瞬間、突如ハッとしたかと思うと顔ごと横へ逸れていった。呟くようにこぼされた「悪い」は、言葉通りなんとも決まりが悪そうで。

思わず笑ってしまったなまえは「どうせならよしよししてくださいよ」と茶化し、散らかした筆記具を片付け始めた。そろそろ最終下校の時間。スクールバッグのジッパーを閉め終え、未だ黙ったままの相澤を見遣る。ぱちりと合わさった視線。困っているようには見えない。それでも一応「冗談です」と逃げ道を提示しながら微笑んでみせれば、ようやく腰を上げてくれた。

そりゃあほんのちょこっとの期待はあったけれど、別に良かった。だから明日に思いを馳せつつイスを引いた。今日の一大イベントはもう閉幕。


「忘れ物はないな?」
「大丈夫です」
「ん」


カーテンを閉め、電気を消す。揃って廊下に出たところで「今日も有難うございました」って、ぺこり。ぶっきらぼうな短い返事は聞き慣れていた。さあ帰ろう。そう名残惜しさを振り払うことだって、まるでいつも通り。けれど、下げた頭を戻す途中。ポンと乗せられた重みは、初めて知る温もりで。


「みょうじ、下手な嘘はつくなよ」
「……すみません。顔に出てました?」
「いや、そうでもないが……まあ毎日見てんだ。そこそこ分かるよ」


丸みに沿って数度行き来した大きな手は、髪の表面を滑りおりた後ポケットにしまわれた。


「気を付けて帰りなさい」
「有難うございます。さようなら」
「はい、さようなら」


高鳴る鼓動を連れながら踵を返す。

幾分かぎこちなさを孕んだ撫で方は、勉強熱心な生徒を褒めるような、猫を宥めるような、あるいはたった一つの“特別”を愛でるような、そんな手付きだった。


fin.


Dear.「嗄声」萬さん*祝10万打
request>>放課後、夢主の質問を答えるため自主的に教室に来てくれる相澤先生(生徒と先生という関係性が現在進行形である上での二人)

title 約30の嘘




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