そんな距離で、ずるい




治崎さんの背中が好きだ。
普段はあんなに伸びている背筋が、座った途端に丸くなる。薄いワイシャツ越しにわかる背骨。一際目立つ肩甲骨。痩せているわけではなくて、しっかり筋肉のついた広くて大きな背中。


「治崎さん、触ってもいいですか?」
「……今か?」
「はい」
「ダメだ。後にしろ」
「今がいいです」
「俺の言うことが聞けないのか?」
「後にします」


何やら難しい本を読んでいるらしい治崎さんは、少しだけ振り返った瞳を細め、また前を向いてしまった。パラパラと頁をめくる音が、静かな空間に響く。規則的で無機質な音は、あまり好きじゃない。とは言え、治崎さんを怒らせないことが一番大事だってことくらいは理解している。私の機嫌なんかより、よっぽど大事なことだった。


触りたいなあ。

手を伸ばせば届くのに許されない、とはなんとも歯がゆい。まるでお預けをくらった犬のような気分だ。
私の飼い主様は、いったいどれくらい後なら良しと言ってくれるのか。本を読み終わった後か、それとも彼のやりたいことが全て済んだ後か。後者だった場合、おそらく日付が変わってしまう。私の気は、あいにくそんなに長くない。今まで一緒に過ごしてきて、たぶん治崎さんも私のことをよく知っているけれど、考慮してくれる割合はゼロに等しいように思う。


「治崎さん」
「……」
「治崎さん、治崎さん」
「……何だ」


言いつけ通り、彼の背中には触れていない。
振り向いた瞳に両手を軽く挙げて示すと、あからさまな溜息を吐かれた。名前を呼んでいただけなのに、もしかしてこれもダメだったのだろうか。ただでさえ仕事ばかりで構ってくれないのだから、少しくらいは許して欲しいのになあ。でも、治崎さんがダメだって言うなら、やっぱり私は待つしかなくて。


どこか呆れたような視線から、逃げるように俯く。ごめんなさいと謝れば、いつもの手袋をはずした長い指が、頬に触れた。

組の殆どがこの手を怖いと言うけれど、私は好きだ。不器用な優しさを孕んだ、少しひんやりしている手。私に触れる時は、こうして必ず手袋をはずしてくれる愛しい人。


「なまえ」
「?」


そのままこめかみを伝い、後頭部を撫でていった手へ引き寄せられる。静かな息遣いが鼓膜をくすぐって、緩慢な動作で寄せられたそれが、治崎さんの唇であることを知る。
少し間を置いて、吹き込むような吐息とともに発せられた低音は、私の短い気をちょっとだけ長くさせた。


「いい子にしていろ」



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