幸せを噛む




パトロールを終え、今日は穏やかだからと帰宅許可が出た夕方。
いつも通り「ただいまー」とドアノブを引けば、ガチャッと引っかかった。

何が起きたのか理解できず、数秒静止した後、首を捻る。
なまえがいるはずだけれど、買い物にでも行っているのだろうか。
不思議に思いつつ、カバンからキーケースを取り出した時、目についた腕時計が示している時刻に、思わず笑った。

いつも帰ってくれば家の鍵が開いていて、なまえが夕飯を作って待ってくれているものだから、もう当たり前のように彼女が居ることを前提に考えていたけれど、まだ五時過ぎ。買い物に出かけているどころか、仕事から帰ってきてすらいない時間だった。
そう認識したにもかかわらず、靴を脱ぎながら内鍵を閉めようとしてしまうのだから習慣ってこわい。

すっかり癖づいてしまっている自分にじわりながら、玄関を上がる。なまえより先に帰ってくるのは随分と久しぶりで、電気のついていないリビングが新鮮に思えた。


今日は何時上がりだろうか。
冷蔵庫に貼ってある彼女のシフト表を覗きながら、夕飯を考える。もう間もなく帰ってくるなら、先に風呂を沸かして待っておこう。俺が作っておくよりも、二人で作る方が喜ぶのだ。なまえの嬉しそうな顔が脳裏に浮かんで、自然と頬が緩んだ。


浴槽を流してスイッチを押す。そうしてテレビをつけて、ソファで休憩すること数十分。玄関で短い音がした。ついで、ガタガタ扉が揺れるような音。
少し静かになったかと思えば再び鍵の回る音がして、聞き慣れた笑い声が聞こえてきた。

おおかた、いつもの癖で鍵を開けたつもりが、俺が先に開けていたことで閉まってしまい、ドアノブを引いても動かない扉にフリーズしたのだろう。大きな目を丸め、きょとんとしている姿が安易に想像できた。さっきの俺も、たぶんそんな顔になっていただろう。

一緒に生活をするようになってから、少しずつ似てきているように思うのは気のせいか。


「お帰りー」
「…っただいま…」
「ふは、すげえ笑ってんじゃん」
「だって…っ家、電気ついてて…鋭ちゃんいるんだって思ったのに…鍵、っ」


靴も脱がず、玄関に突っ立ったまま必死で笑いを堪えているなまえのカバンを持ってやる。
うん、俺も無意識に扉引っ張ったし、なまえ帰ってきてねえって分かってんのに内鍵閉めようとしたぜ。恥ずかしいし指差して大爆笑するだろうから、絶対教えてやんねえけど。


「ほら来い、なまえ」


あまりのツボりように、つられて笑いそうになりながら両腕を広げる。途端にパッと瞳を輝かせたなまえは、雑に靴を脱ぎ散らかした。
腕の中におさまった華奢な体躯を抱きしめる。相変わらず柔らけえ、なんて癒されるのは、いつもと同じ。「一緒に飯作ろうぜ」と笑いかければ、胸元に顔を埋めてこくこく頷くもんだから可愛い。


俺が先に帰っていたことが、よほど嬉しかったのだろう。それから暫くの間、ぴったりくっついたままのなまえは離れようとしなかった。

電気がついていて、風呂も沸いていて、美味そうな香りが漂う明るいリビング。そんな当たり前がどれだけ幸せなことか。改めて胸の内側があたたかくなった。いつもありがとなって、風呂入ったら言ってやろう。



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