甘やかな夜淵




あたたかい。

ふ、と浮上した意識。緩い重み。ぼやける視界に映るのは、自分の手と黒色。
しん、と静まり返った空気の中、鼓膜を震わせる穏やかな呼吸音と微かな寝息。鼻腔をくすぐる柔軟剤の香り。

消太だ、と認識することに、そう時間は掛からなかった。

面倒くさい私のことを好きだと言って、照れくさそうにしながらも抱き締めてくれる、とても優しくて強い人。おそらく、私の人生で出会うことの出来る、最初で最後の人。


そっと温かい胸に擦り寄れば、とくん、とくん、と脈打つ緩やかな鼓動の音が、静かに内側へと響いた。全身の力がすうっと抜けていくような安心感が心地いい。

こんなに落ち着いて呼吸が出来るのは、彼の隣だからか。

いつも、寂しさと諦めに苛まれていた。そんな冷たい家庭環境で育った。どうせ私なんかには無理だって、必死に心の隅へと押し込めて気付かない振りをしていたけれど、本当はずっと、こんな風に愛されたかった。愛したかった。素直に泣きたかった。背中を撫でて、大丈夫だよって微笑んでくれる優しさが欲しかった。ここにいたいって思える場所に、いていいよって言ってくれる安心が、ずっと。


「消太」


ぽそりと、起こさないように小さく名前を呼ぶ。ただの自己満足。ほんの少し呼んでみたくなっただけ。
別に起こさなくたって、あたたかい彼の腕はちゃんと私を抱いてくれていて、寂しさや不安なんてものは浮かばない。なのに、「どうした」と、寝起き特有の掠れた声が鼓膜を掠めた。


「なまえ」


そのまま紡がれた私の名前に、思わず顔を上げる。うっすらとしか開いていない眠たそうな瞳。彼の指先が、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと、けれどしっかり私の目元をなぞる。目頭から涙袋にそうようにゆっくり滑り、目尻を数度撫でていく。


「…泣いてはないな」


安心したように、ふ、と笑みを象った形のいい唇が寄せられた。軽いリップ音に身体の熱が上がったような錯覚。消太はいつだって、一枚も二枚も上手だ。


「起こしてごめんね」
「いや、起こされた訳じゃない。寝れないのか?」
「そんなことないよ」
「そうか。じゃあ、」


言葉が途切れたかと思えば、彼になかば凭れかかるよう、強く抱き寄せられる。あたたかくて筋張った大きな手が背中にそえられて、トン、トン、と一定の間隔をたもったまま、まるで幼子を寝かしつける時のように優しく叩く。


「こうしててやるから、寝なさい」


とくん、と跳ねた心臓の一際大きな音に、やっぱり好きだなあと再認識する。緩んだ口角を引き締めることは、出来そうにない。こんなだらしない顔はさすがに見せられたものではないと、彼の肩口に鼻先を埋めた。返事は出来なかった。ただ、頷くことで精一杯だった。




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