もうなにも、こわくなんてない




『プロポーズされた』

友達からのそんな報告に、おめでとうと返す。本当におめでたいことだと思うし、仲がいい子なので嬉しさも大きい。彼氏が出来たと言っていたのは、確か二年前だったか。
早いゴールインだったなあ、と頬が緩んで、でも、口からこぼれたのは溜息だった。


自然と落ちた視界に映る私の指には、当然のように何もない。もう付き合って十年以上になる彼が今までにくれたものといえば、この家の合鍵くらいだった。

べつに、まわりがどんどん結婚していくからといって焦っているわけではない。私達には私達のペースがあるし、あくまで他所は他所だということも分かっている。恋愛ごとに殆ど関心のない人を好きになったのは私だし、プロヒーロー兼教師である彼は、そもそもそんなことに構っていられないくらい忙しい。

不満も不安も、特にない。好きでいてくれていることは分かっているから、それでいいとも思う。
ただ、幸せそうな誰かを目にする度、彼の姿が脳裏をちらつくだけ。胸の内側に、小さなモヤモヤが生まれるだけ。


また詳しく決まったら連絡するという友達とのLINEを閉じて、ベッドに沈む。洗濯したシーツに彼の香りは残っていなくて、溢れていくのは寂しさ。
いつ寮から帰ってきてもいいように、こうして私が掃除をしに来ていることも、忙しい彼は、きっと知らない。

思い出の詰まった部屋に一人。

もういっそ、ここに移り住んでしまえば、なんて愚考する。どうせそんなこと出来やしないのに。
彼が結婚に対してどう思っているのか分からない以上、私から踏み込むことは、ひどく難しい。

熱くなる目頭を誤魔化すように、そっと瞼を下ろす。


「……なまえ?」


不意に聞こえたのは愛しい声。
とうとう幻聴が始まったのかと息を吐けば、ぎし、とスプリングが軋んだ。幻が乗ったくらいじゃ、こんなにベッドは沈まない。じゃあ、今私を見下ろしているこのボサボサ髪の男は、本物の消太なんだろうか。

手を伸ばして、ザリザリとした無精髭を撫でる。
目付きの悪い瞳を静かに細めた彼は、牽制するように、私の手を掴んだ。


「こんな所で何してんだ」
「…掃除が終わったから休憩してた」


久しぶりに触れた体温は少し冷たくて、ああ消太だって実感する。ゴツゴツとした手は相変わらず擦り傷だらけで、少し前に増えた目元の傷も残ったまま。
そういえば、一生消えない傷痕が出来たことも、直接会うまで知らなかった。恋人っていうのは、響きばかりが甘くて、何の効力ももたない関係だと思い知ったあの日が痛い。

ところで、消太は何をしに帰ってきたんだろうか。忘れ物か、何かが足りなくなったのか、たまたま家の様子を見に来ただけなのか。
私を見下ろす眼差しは微動だにせず、時折瞬きをしては、眉間に皺を刻んでいく。


「…ずっと居たのか?」
「今日は休みだったから」
「仕事の日はどうしてる」
「帰りにちょっと寄るくらいだよ。疲れた時は直帰するけど」


私の何十倍も賢いその頭で、今、何を考えているのか。
どんどん顰めっ面になっていく消太に思わず笑えば、くしゃくしゃと前髪を撫でられた。「無理はしてくれるなよ」と言う声には、ちゃんと優しさが孕んでいて、私を大事に思ってくれていることがハッキリ感じられる。

不満も不安も特にない。
その言葉に、やっぱり嘘はない。


「消太は何しに来たの?」
「家がどうなってるか見に来ただけだ。仕事が早く終わったんでな」
「そっか。お疲れ様。凄い綺麗だったでしょ?」
「ああ。おかげさまで」
「もっと褒めて」
「調子に乗るな」


窘めながらも、優しい手は私の頭を掻き撫ぜてくれる。褒められているよりかは可愛がられているような気分になれて、ちょっと嬉しい。

私が笑えば、つられて緩められる口角。
息を吐いた消太はごろりと隣へ寝転んで、それから私を引き寄せた。見た目よりも随分逞しい胸に抱かれ、大好きな香りが肺を満たしていく。毎日こうだったらいいのに、と思った瞬間。


「毎日お前がいればな…」


小さく聞こえたそれに、思わず心の声が漏れてしまったのかとびっくりしたけれど、鼓膜に残っている音は、確かに消太のものだった。
顔を上げれば、バツが悪そうに後頭部を押さえられて胸元に埋まる。

真っ暗な視界の中、ふつふつと浮かぶのは結婚のこと。
もしかしたら、いつ危険に晒されるか分からないヒーローだからって躊躇う必要はないんだよってことを伝えないと、彼からは踏み込めないのかもしれない。付き合いだした頃から、いろんなことを考えすぎる人だった。消太の気持ちが分かった今、私から踏み出すのは、なにも難しいことじゃない。

ねえ、と背中に回した腕で縋る。
逃げたり逸らしたり、はぐらかしたりしないで、どうか聞いてほしい。


「相澤になる覚悟は出来てるからね」


私の精一杯に気付いてくれたのか、額を押しつけた先。皮膚を通して伝わる心音が、大きく乱れた。





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