願うは未来




『わたし、夢は見ないの』


いつだったかの言葉を思い出す。
どこで聞いたのかも覚えていないほど、遠い記憶。

良家の娘だからと、見合いのような形で紹介されたなまえとの付き合いは、もう五年ほどになる。大人から見たなまえは、大人しくて聞き分けのいい、典型的ないい子だった。決して逆らわず、俺のような親へ対する反抗心もない。耳に入る評価は、いつも称賛。それなのに、愛されて育ったようには到底見えない女だった。

落ち着いた淡藤色の着物に身を包み、縁側から庭を眺める静かなその瞳は、あの頃と変わらず、ひどく冷めている。


「バームクーヘン食べるか」
「ええ、有難う。ごめんなさい。私がしなきゃいけないのに」
「気にするな。俺の家だから」
「有難う」


切り分けたバームクーヘンが乗った皿を置いてやると、綺麗な指先がフォークへ添えられた。
ただ物を食べるだけ。ただお茶を飲むだけ。俺しかいないというのに、その洗練された上品な動作が崩れることは一切ない。

艶やかな黒髪に映える真っ白な肌。いろんな色が控えめに光るオパールのような瞳。細く長い睫毛が影を落とすその様子にさえ、育ちの良さが窺える。

血色の悪い、小さな唇からこぼれる音に感情はなく、まるで、届いた人の感性に全てを委ねるように内側へと広がる。


「雄英高校はどう?」
「…いろんな奴がいる」
「そう。きっと楽しいのね」
「?」
「焦凍の瞳が、優しくなったもの」


ゆるやかに口元を緩めたなまえは、静かにお茶を啜った。

微細に動いたその表情に、初めて、寂しそうだと思う。今まで交わした言葉は数えきれないほどあるというのに、思えば、感情を読み取れたことなんて一度もなかった。
同じ歳とは思えない、優美で、綺麗で、しなやかで、冷たい。そんな印象は抱けても、なまえの心の内なんて微塵も分からなかった。きっと、彼女自身がそうさせていた。



「なあ、なまえ」
「なあに、焦凍」


名前を呼べば、呼び返してくれる。
話しかければ、静かに応えてくれる。
黙っていれば、何も言わずそこにいてくれる。

透き通るような乳白色の中で、鮮やかに光る虹色。なんとも形容しがたい不思議な色をした瞳が、そっと俺を見る。
オパールみたいで綺麗だ、と思うのは、これで何度目か。


「次の日曜、また来れないか?」
「大丈夫よ。何かあるの?」
「俺と、お母さんに会いに行って欲しい」


ゆっくり丸められていく瞳。ぽかんと開いた口。
何を言っても動じないなまえが、こんなに分かりやすく驚くのは、とても珍しい。


「紹介したいんだが、ダメか?」
「…いいえ。ダメなんてこと、」
「じゃあ、嫌か?」


膝に添えられている細い手に手を重ねる。
なまえが纏う冷たさとは違った、ちゃんと人の温もりを宿している真っ白な手。
覗き込んだ先の瞳は、ゆらゆらと揺れていた。頻りに瞬きを繰り返すのは、動揺しているからか。俺の視線から逃げるように、肩を竦めて俯いたその唇が、小さく震える。


「…嫌じゃないの、本当に。嫌じゃないのよ。でも、こんな気持ち初めてで、どうしたら良いか、分からないの」


いつも大人びていて、どこか遠くて、何一つ胸の内を悟らせないなまえが初めて口にした戸惑いに、ふつふつと湧き上がる熱。まるで人形のように閉ざしていたのだろうその心に、今俺が与えることの出来た感情は、きっと嬉しさや喜びだった。それが、俺の胸の内をこんなにも掻き立てる。


「大丈夫だなまえ」


いろんな明るい感情を与えてやりたい。
この、今にも壊れてしまいそうな存在を守ってやりたい。俺にそれが出来るのかは分からない。でも、何かをしてやりたいと思う気持ちは、誰にも負けない。


「夢は、俺が見せるから」


弾かれたように顔をあげたなまえの手を、強く握る。どうすれば安心させられるのか分からないけれど、きっともう、これで大丈夫だと思った。



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