ちいさく燻るサルビア




穏やかな波の音。
片耳のイヤホンからはゆるやかな旋律が流れ、月明かりに照らされた静かな海面がきらきらと光る。今この瞬間が、とても綺麗な宝石箱であるかのような錯覚。

どうしたって眠れない夜は、時折こうして、海を見に来る。

砂浜に腰をおろし、三角に折った膝を抱えて、地平線で交わる暗い空と深い海をぼうっと眺める。
眠った街の中、鼓膜に広がるのは好きな音だけ。誰もいないこの静寂が、ゆっくり私を落ち着かせていく。

筈だったのに。


「いつまで居るつもりなんですか?」


私の隣に腰をおろした相澤先生を一瞥する。
夜に無断で外出している私を叱るとともに寮へ連れ戻しに来た様子で、もちろんお小言が耳に入らない私が応じるわけもなく、その内後ろに立っているだけになった先生は、数分前からこの状態だ。無駄を悟ったのなら早々に帰ってしまえばいいのに、教職ともなるとそうもいかないのだろうか。


「お前が大人しくついてくるなら、今すぐ帰れるんだがな」
「じゃあ朝まで帰れませんね」
「正気か?」
「冗談です」
「おい」


不機嫌そうに瞳を細めた先生は、それでも私を放っておいたり、問答無用で捕縛して連れ帰ることはしないらしい。

小さな溜息が聞こえたかと思えば、ごろりと寝転がった黒い塊。今日は寝袋を持っていないのか、いつも通りのぼさぼさ髪に砂が絡まりそうだ。
柔らかなそれに指を通せば、身じろぐ背中。


「ここには良く来るのか」
「……まさか相澤先生、生徒のメンタルケア始めたんですか?」
「アホか。俺はやらん」
「じゃあなんでそんなこと聞くんですか」
「そんなこと以外聞かないだろ」


至極面倒くさそうに顔が顰められる。
ただでさえ人相が悪いのにもっと悪くなりますよ、なんて言ったら背中を叩かれた。
痛い。悪い。なんて応酬のあと、流れたのは少しの沈黙。


「せめて外出届けを出しなさい」
「あーあー、何も聞こえないなあー」
「たく…都合のいい耳だな」
「どうせ許可なんかしてくれないじゃないですか」
「当たり前だ。何時だと思ってる」
「あーあー」
「……みょうじ」
「すいませんでした」


いい加減縛ってでも連れて帰るぞ、と相澤先生の目が言い出したので大人しく膝を抱える。

不思議と、不快感はない。

自分以外いらない世界に誰かがいる。そんな感覚を苛立ちもせず許容出来ているのは、相澤先生だからだろうか。

別に何かあったわけではないのだ。当然、メンタルケアが必要なほど劣悪な環境に置かれているわけもない。ただ、優しくて親切で頑張り屋さんで、とってもいい子な皆の中でいると、自分の醜さが浮き彫りになるようで、少し息苦しいだけだった。

いい子っていうのは、窮屈で面倒くさい。
私はそんなに輝けないし、なんなら諦めることの方が何億倍も得意な人間である。それをきっと、この人は知っている。


「みょうじ」
「はあい」
「俺は、見込みがないと判断した時点で除籍にする」
「知ってますよ。第一候補は私ですよね」
「良く分かったな」
「バカじゃないんで」


にやりと口角を上げてみせれば軽く鼻で笑われた。相澤先生は私にだけ辛辣な対応をするような気がする。
飾らないところは嫌いじゃないので不満はないけれど、果たしてイレイザーヘッドがこんな感じでいいのかどうかは甚だ疑問だ。


「まあ、世の中にはいろんなヒーローがいる。ワンパターンでは務まらん」


大きな手に、ぽんぽん、と頭を撫でられる。

勿論こんなことで絆される私ではないし、先生もそれを知らないわけではない。それでもこうして手を差し伸べながら言葉をくれるのは、教師だからなのか、ヒーローだからなのか、あるいは。


「………」


薄々気付いていたその先を考えるのはやめにして、波の音に耳を傾ける。

いつの間にか音楽は止まっていた。
二人分の微かな呼吸音が大気を渡って、今ここに、私と相澤先生だけが取り残されているような錯覚。


頭に乗せられたままの手が、気怠げに数回行き来して、離れていく。掴むことはしなかった。先生が耐えているかもしれないのに、私だけが許されるなんて、ひどく難しい。


「…卒業したら、構ってください」
「そのつもりでいる」


あーあ。大人ってずるい。
頑張れ、とは言わない相澤さんに免じて、今日は大人しく帰ろうかな。

そう腰を上げれば、やっとかと息を吐いた先生も立ち上がった。
途中で逃げられては困るから。そんな理由をつけて、ご丁寧に部屋の前まで送ってくれた彼の「おやすみ」と紡がれた優しい音に眠気を誘われる。


翌日、まさか反省文十枚を言い渡されるとは思いもしなかった。全部『すいませんでした』で埋めてやった。





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