指先という心臓




さりさり、鑢の音。

背を丸め、立てた片膝を抱くような姿勢で爪を整えている爆豪くんは、私が正面に膝を着こうと一瞥さえくれやしない。仕方なくがっしりした肩へ触れてみたけれど、ほんの一瞬波打った皮膚は、すぐに平静を取り戻してしまった。残念。彼の動揺を誘うには不十分だったらしい。それにしても綺麗な顔。

すっと通った鼻筋を目でなぞり、伏せがちの小さな瞬きを追う。誰かが前に立つことすら嫌う暴君が黙って見下ろされているだなんて、皆が聞いたらどう思うだろう。驚くのか、疑うのか。はたまた笑うのか。


優しいと形容するには言葉が少なく無愛想である彼は、三日前、私のことが好きだと言ったばかり。きっと皆は知らないこと。私以外知りえないこと。こんな風に静謐を寄り添わせる一面も、たぶんその内のひとつ。否、緑谷くんなら知っているかもしれない。幼い頃から爆豪くんを見てきた彼なら、それが酸素同等の当然だったかもしれない。

いいなあと思う。私も折寺中学出身だったら。もう少し早く彼と出会えていたら。でももしそうだったなら、好かれてなんてなかったかもしれない。可能性の話って難しい。それでも羨んでしまうのは、どうしたって仕方がない。


「かっちゃん」
「……」


ぴたり。緑谷くんを真似て呼んだ愛称は、どうやらお気に召さなかったらしい。鑢の音が止まったかと思うと、真紅の瞳が睨み上げるようにこちらを向いた。

怒られるかな。先に謝った方がいいかな。ゆったり思考を巡らせ、結局怒られてみるのもいいかって着地点を見つける。緑谷くんのように怒鳴られたって、ちっとも悪くない。だって知らないのだ。今まで幾度となく耳にしている地を這うような荒い声は、どれも私に対する言葉ではなかった。特別扱いといえば聞こえはいいかもしれない。ただ皆が当たり前に経験している感覚を味わえていない今、素直に喜べたものでもない。これがジェラシーってやつか。


視界の中央でルビーが瞬く。幸か不幸か、ゆっくり開いた薄い唇から怒声が発せられることはなく、緩やかにこぼされたのは「勝己」って名前。とっくの昔に知っているっていうのに、まるで教えるような、念を押すような名乗り方。だから私も九官鳥よろしく「勝己?」と復唱した。彼の意図が分からなかった。名前で呼べってことだろうか。

大きな手が、腰に回る。


「呼びてえならそっちにしろ。なまえ」
「わ、っ」


片腕をとられホットケーキのように軽々反転させられた体は、ぽすん。膝上に着地。背中から、腰から、脚から。触れている箇所全てから彼の温度が滲む。手首を伝い、掌を支え。そうしてひとつひとつ爪先を撫でていく無骨な指は、存外優しく丁寧で。ちょっと吃驚しながら脱力した。


「そんなに伸びてないでしょ?」
「処理が甘え。鑢使ってねーだろ」
「あー……爪切りの裏にあるやつしか」
「んなモン使った内に入るかよ」


鼓膜の真横で笑う吐息。

呆れも苛立ちも窺えない平坦な声色が「うっすい爪してんな……」とぼやいた。次いで引き出しから取り出されたのは、さっきの物より目が細かく厚みもない金属製の鑢。どうやら爪の性質や状態によって使い分ける品らしい。


さりさり。いつの間にか聞き慣れていた音と共に、微細な振動が伝わる。きっと面倒だろうのにわざわざ世話を焼いてくれるのは私だからか。特別扱いってやつか。

一定方向へ滑る板をぼんやり眺める。整えられた先端は滑らかな曲線を描き、また違った種類の、柔らかいクッションのような鑢で磨かれた表面はつるりと光った。


title 約30の嘘




back