深遠の岸にて




湿った空気を吸い込んで、ゆっくり閉ざした視界を開く。広々とした縁側で、そうっと耳を傾ける。しとしと、ぱらぱら、ぴちゃんぴちょん。きっと優秀な庭師を雇っているのだろう。死穢八斎會が有するこの庭園は日本古来の風情を醸し、大小様々な庭石と四季折々の植栽が雨に打たれて濡れそぼつ。

幼い頃から好きだった。仄明かりを受けきらきら舞い降る雨粒も、軒や木々や地面に当たって弾ける音も。気圧の変化か決まって寝込む両親を放ってビニール傘を手にしては、ひとり、鈍色の街へ吸い込まれていくような子どもだった。あの頃は靴下がびしょびしょになるほど遠くへ行った。いろんな音が聴きたくて、いろんな景色が待ち遠しくて、もっともっととせっつく高揚感がずっと胸の底にいた。でも今はいない。まだ見ぬ世界があるとしても、もう行かない。エンジン音が遠くに聞こえるこの静かな箱庭で、雨音以上に恋しく想う音がある。愛しい人がそこにいる。


「書類、片付きました?」
「……ある程度はな」


耳触りのいい低声。振り向いた先で瞠目した廻さんは、小さく息を吐いた。世界で一等永く聴いていたいと思える緩やかな声調が、畳を踏んでは隣に座る。あぐらを掻いて背を丸め自然に巻いたその肩へ、そっとやんわり寄りかかる。

何を言わずとも許されていた。名前で呼ぶことを筆頭に、寄り添うことも触れるのも。昔は特別だった当然が、心を丁寧に縫いとめる。ぺトリコールと彼の匂いが肺を満たす。


「休憩ですね」
「ああ」
「コーヒーでも淹れますか?」
「いや。……そう気を遣うな」
「遣ってませんよ。いつも自然体です」


無言の視線に苦笑する。どうも彼には、私が縮こまって見えるらしい。

確かに居候の身。けれど不自由なんてひとつもない。私専用の部屋があり、欲しい物は大概なんでも手に入る。組の皆も良くしてくれる。彼の自室含め、この広い邸宅内を行き来出来る。未だ望んだことはないけれど、お出掛けだって難しくない。彼は私を籠の中の鳥にしたいわけじゃない。ただ不器用なだけ。愛し方を知らないだけ。仕方ないよね。温室育ちじゃないんだもの。私も同じ。なのにどうして惑うのか。そんなに不安がらずとも、自ら選んだあなたの隣。これっぽっちも寂しくないし、たったの少しも不幸じゃない。


「なまえ」
「ん?」
「どこか行きたい所はあるか」
「んー……デートですか?旅行?」
「別に俺と一緒でなくていい。お前もたまには羽を伸ばしたいだろう」


細まる琥珀。緩慢に閉じ、開いた瞼。逸れていった眼差しを「一緒がいいです」と呼び戻す。シワひとつ見当たらない、黒いシャツの袖を引く。


「ひとりじゃゆっくり出来なくて……。廻さんもそうだから会いに来てくれたんでしょう?」
「まあ、否定はしない」
「煮え切らないなぁ」


彼らしい返答に微笑みながら座り直す。依然降り続く雨が時間の流れを綺麗に浚い、切り離されたこの場所で、息衝く鼓動は二人分。それで良かった。これが良かった。


title まばたき
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