住みついた幻




もどかしさについ開きかけた口は、寸でのところで閉じた。眠りが浅い彼を起こしてはいけない。頭では分かっていても、瞼の向こう側へ隠されているビー玉のような瞳を近くで見たいと思う私の、なんと浅ましいことか。

こうして何も知らない彼のことを考えてしまう時間が増えたのは、何も知らないからこそなのか。それとも、私を捕まえている穏やかな体温のせいか。

同じシャンプーの香りが愛おしいだなんて笑ってしまう。全くもってバカバカしい話。夜中にやって来て、朝がくればいなくなる男。連絡先どころか名前すら知らない。もしかしたらここは夢の中で、私が今触れている彼はただの幻なのかもしれない。そんな曖昧な存在にいつの間にか恋をして、心全てが奪われて。


開かない瞼をそうっと撫でる。薄い皮膚の向こう側にまあるい球体。指先から伝わる不思議な感触に掻き立てられるこの感情は、いったい何だろう。

指を離す。僅か数秒遅れて長い睫毛が揺れた。底の知れない、吸い込まれそうな緑色に私が映る。


「ごめん。起こしたね」
「気にすんな」


頭上へ片腕を伸ばしながら欠伸をする姿は、さながら猫のようにも獰猛な獣のようにも見えた。空中から戻ってきた片腕が、再び背中へと添えられる。

お前の体温は、冷たくて丁度いいな。

いつだったかの言葉を思い出しながらただ目前の瞳が瞬く様を眺めていれば、ふ、と笑った唇にキスをされた。



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