愛を謳う




アコースティックギターの軽やかなBGMが揺蕩う、小さなカフェの片隅。まろやかなコーヒーに角砂糖を溶かし、ティースプーンでくるくる。ひと足先に運ばれてきたトーストは、もう食べ頃になっただろうか。あんまり熱いと舌が焼けてしまうのだ。


窓の外で揺れる緑を眺めながら、彼を待つ。

今日は何時に来るのか。それとも来ないのか。わからない。約束をしているわけではなかった。ただ、私が待っているだけ。待ちたいだけ。街の喧騒から切り離されたこの空間で、あたたかいコーヒーと美味しいトーストとともに愛しい人を待つことは、そう難しくなかった。


まだかなあ。会えたらいいなあ。

コーヒーを啜って、丁度良い具合まで落ち着いたトーストを齧る。サクサクした食感と、舌触りのいいシナモンシュガー。仄かな甘味が口腔に広がって、頬が綻んだ刹那。カタン、と、隣のイスが音を立てた。


「相変わらず美味そうに食うな」
「廻さん!」
「声が大きい」
「す、すみません……」
「そんなに嬉しいか」
「もちろんです」
「変わった奴だな」


切れ長の瞳が細められ、それからゆっくり瞬きをするのは機嫌がいい証拠。気持ちが溢れて、つい溶けてしまいそうな表情筋をなんとか保つ。それでも笑みはこぼれるもの。くわえて廻さんが「同じものを」なんて注文するのだから、もう嬉しくって仕方がない。


「甘いですよ、これ」
「たまには良いだろ」


長い脚をゆったり組んだ彼は、小さく息を吐きながら背凭れへ沈んだ。きっとお疲れなんだろう。本人は決して口にしないけれど、最近忙しくしているようだと風の噂で聞いた。きっと過ぎ行く日々の中で、息を抜ける瞬間ってものが少ないに違いない。

私も、この店を知るまではそうだった。廻さんと出会うまで、どんな一瞬も、ただの時間でしかなかった。


挽きたてのコーヒーと、トーストの香ばしいかおり。お待たせしましたって店員の声が連れてきたそれらに、また心が凪ぐ。鼓膜を震わせたのは、ウッドベースとよく馴染む低音。心地がいい、愛しい声。


「いつも来ているのか」
「ええ。用事がない朝は毎日」
「……そうか」


何かを言いかけて相槌に留まった。そんなニュアンスを孕んだ空白に、首を傾ける。

彼の求めている言葉は何だろう。彼が言おうとしていたのは、どんなことだろう。


「待ってますよ、いつも」


考えてもわからないから、微笑みかける。マスクをずらしてコーヒーを啜る彼が、肩の力を抜けるように。このカフェを気に入ってもらえるように。他の誰でもない、私の隣で落ち着いてもらえるように。


「廻さんが好きなので」


今日も、愛を謳う。



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