ああ、ここが×××か




眼差しがほんの少し柔らかいかな。皮膚をなぞる指先が優しくなったかな。気付いたことと言えば、その程度。ずいぶん長く傍にいる筈なのに、心の内を察することはひどく難しい。そのくせ、名前を呼んだだけ。たったそれだけで、私が今どうしたいのか、何を求めているのか、彼は全部分かってくれる。


「あったかい」
「だろうな」


遠慮するなと言わんばかりに伸ばされた腕の中は、言葉通りあたたかかった。眼下に真っ青な海が広がるバルコニー。湿気のない涼やかな風がそよそよ吹き抜けるソファの上。やっぱりあたたかい日射しを浴びながら寛いでいた廻からは、太陽の匂いがした。


「ジリジリ焼かれる感じだね」
「部屋に戻るか?」
「ううん、いいよ。このままで」
「そうか」
「暑い?」
「いや、丁度いい」
「そっか」
「ああ」


ゆっくり吐き出された息。廻のお腹が平坦になって、また膨らむ。薄い皮膚を通して伝わる鼓動に落ち着いて、思考を襲うのはぼんやりとした眠気。


甘え方も甘やかし方もよく分からなかった。幸福の味など知らないまま、気付けば大人と呼ばれる歳になった。何もかもお互い様。悔やんだことはない。これで良かったと思う。だって、正解なんて誰にも分からないからこそ、私と廻を否定することさえ誰にも出来やしないのだ。


「最近ね。このまま死んでもいいって、よく思うの」
「……どこかで聞いたような台詞だな」
「やだなあ、文豪の言葉を借りたわけじゃないよ」


死んでもいいわ、なんて。愛してる、なんて。そんなロマンチックな意味を含ませたつもりは毛頭なかった。ただ廻の温もりに触れたまま、穏やかな心音を感じたままなら、言葉通り死んでもよかった。廻に愛された記憶を抱いていられるなら、それは紛れもない幸福だった。


「なまえ」と呼ばれ、顔を上げる。なんて長い睫毛なんだろうって、一瞬呼吸が止まった。優しく、柔く。私に触れる時だけ手袋をはずす廻の瞳には、今、私だけが映っている。



back