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先生は、あんまり甘やかしてくれない。結構ドライでストイック。自分に厳しく人に厳しく。出来ないことは言わないけれど、出来そうなことに容赦も慈悲もない。そんなだから、三十路になってもお相手一人いないんですよって悪態をついたら、鼻で笑われた。「お前がいるだろ」って笑われた。はあ。


「ナチュラルに誑してくるの、やめてもらっていいですか」
「誑されてんのか」
「そりゃもうキュンキュン」
「安い心臓だな」
「先生限定ですよ?」
「そうか」
「わー興味なさそー」
「みょうじ、人数分まとめて留めといてくれ」
「はい」


差し出された紙束を受け取って、溜息を吐きながらパチパチ留めていく。ホッチキスを発明した人って本当に凄い。なんて適当なことを考えて、無理やり相澤先生から意識を逸らした。


気持ちはもう、伝えてある。遊びじゃなくて、ちょっと大人に憧れてるだけでもない。それはきっと、先生も理解してくれている。でもまだ、ちゃんとした返事はもらえていなかった。

まあ、普段は適当にあしらわれているだけな気がしないでもないけれど、たまにこうして期待させるようなことを言ってくるあたり、脈はあるのだと思う。去年も一昨年も苦しかったけれど、三年になった今は、教師として築かれていた壁が、少しずつ薄らいでいるように感じられることが増えた。少なくとも彼の中で、一生徒ではなく"みょうじなまえ"というカテゴリーが出来つつあるのだろう。


「ここ、置いときますね」
「ああ、助かった。もう帰っていいぞ」
「先生のこと見ててもいいです?」
「やめろ。減る」
「えー」


せっかく二人っきりなのになあ。

両手を上にあげて身体を伸ばす。少し背を反らせば、事務イスがギィと音を立てた。デスクにはまだ書類が積まれていて、たぶん残業コースまっしぐら。またゼリー飲料でお腹をふくらませて、夜遅くまで、彼の要である目を酷使するのだろう。


「無理しないでくださいね」
「……心配には及ばんよ」


振り向いた拍子に伸ばされた無骨な手。「早く帰りなさい」と私の髪をくしゃくしゃ撫でる手付きは優しく、まるで全部分かっているとでも言うように口端を緩めた先生は「ありがとな」と言った。



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