人想いなきみへ




登校してすぐ。ホームルームが始まるまでの隙間時間に現れた相澤先生は、珍しがる皆を適当にいなし「みょうじ、ちょっと来い」と、気のない三白眼で私を呼んだ。

まだ夢うつつだった頭が瞬時に醒めたのは言うまでもない。ただでさえ担任からの指名にろくな思い出がない中、生徒に対して手伝いを頼むイメージすらない相澤先生に至っては、全く先が読めなくてこわい。そもそもこんな朝っぱらから呼びにくるだなんて余程のこと。何かしでかしてしまったのか、この間の抜き打ちテストが良くなかったのか。脳みそフル回転で遡った記憶に思い当たる節はないものの、それでも“気付かぬ内”って良くある話。

内心ビクビクしながら三歩後ろをついていく。いつもより些か遅い足取りで進む猫背は終始黙ったまま。やがて自販機前で止まり、ポケットから取り出したカードを翳す。ボタンが点灯したところで、先生は振り向いた。心臓が跳ねた。


「どれがいいんだ?」
「へ……?」
「ん?」


驚きのあまり広がった視界の中、相も変わらず何食わぬ顔で首を傾ける真っ黒くろすけは一体何を考えているんだろう。最悪怒りの拳骨を覚悟していただけに、全身の緊張がストンと抜け落ちる。

どれがいいんだって、選べってこと?私に?


「奢ってくれるんですか?」
「ああ。好きなやつ選んでいいぞ」
「じゃあ……」


ひとまずお言葉に甘え、目に留まったフルーツウォーターを押す。ガコン、と吐き出されたペットボトルをわざわざ取ってくれた先生に、お礼を述べながら両手で受け取った。遠慮なく150円を選んだけれど、大人にとっては気にかかるほどのことじゃないらしい。おそるおそる窺った横顔は、平然と自分の缶コーヒーを買っていた。

呆気にとられている内、ぽんと頭に乗った大きな手。


「頑張れよ」


くしゃり。去り際にひと撫でされて、つい呼吸が止まった。

気だるげな靴音が遠退く。朝特有の冷ややかな空気が肌を滑り、眼球が乾いていく。数回瞬いて、肺が萎んで膨らんで。そうして心臓が動き始めてようやく、このためだけに呼ばれたのだと気付いた。

振り返った先に、もう猫背はいない。ただ鳴り響く予鈴に背中を押されるまま、慌てて教室へ駆け戻った。







「ってことがあってね」
「朝?」
「そう、朝。めっちゃびっくりした」


もう半分も残っていないペットボトルを振ってみせる。波立った水面に反射した光がキラキラ舞い、「ふーん」と相槌を打った人使は四個目の菓子パンをあけた。

相澤先生の特訓を受けるようになってからというもの、彼のお弁当には必ずパンが追加される。きっと消費量諸々、食べておかなければ調整がとれないのだろう。特に最近は筋肉量も増え、触らなくたって分かるほどの厚みが出てきた。日に日に逞しく成長する頑張り屋さんな姿は何より微笑ましくかっこよく、ちょっと困る。ヒーロー科への編入も控えている今、いろんな女の子の目がハートになったらどうしよう。

なんて余計な心配はフルーツウォーターで流し込んだ。忙しない日々の合間を縫って小まめに会おうとしてくれる人使がどれだけ好いてくれているか、分からないほど馬鹿な女じゃなかった。


「なまえさ、他に何かもらったりした?」
「んーん、もらってないよ」
「クラスの奴からも?」
「うん」


今朝の三白眼より幾分かまろやかな菫色が、私を映す。降りた沈黙を甘んじて受け、数秒見つめ合ったのち。「まあ……そうだろうなとは思ってたけど……」と呆れたようにぼやいた人使は、最後の一口をたいらげた。

ウェットティッシュで綺麗に拭かれた手が、ブレザーのポケットへ忍ぶ。乾いた音と共に姿を見せたのは、手のひらサイズの小包。落ち着いた焦茶色に赤いリボン。品良くラッピングされたそれは、驚くことに差し出された。


「え、私に?」
「そ」


まるで当然のように頷かれてしまっては受け取る他ない。一体何だ。何なんだ。先生といい人使といい、こんなお礼みたいなこと。ただただ混乱するばかりの頭では記憶なんて辿れない。全然分からない。私、何かしたっけ。それこそ気付かぬ内に――。

放心状態から抜け出せないものの、有難く両手のひらを上へ向けて皿を作る。そっと小包が乗せられ名前を呼ばれ、ぎこちなく持ち上げた視界の真ん中。優しく弛んだ眦、やわく緩まった頬。心底愛おしげな眼差しに、世界が止まる。


「誕生日おめでとう。あんたと出会えて良かった」


どこか照れくさそうに笑った人使は「忘れてただろ」って、まるで上書きするかのようにくしくし頭を撫でてくれた。


fin.


Dear.「嗄声」萬ちゃん*HPB
お誕生日おめでとうございます。生まれてきてくれたこと、同じ時代を生き抜いてくれていること、この広い世界で出逢えたこと、全てに感謝と愛を込めて*




back