酸性インクのラブレター


 家に帰ると、部屋に電気が付いていた。

普通なら「ああ、家族が帰ってきてるんだな」なんて素直に靴を脱いで、パンプスに詰め込まれて疲労を主張する足を解放してやるだろう。けれど私は違う。慌てて出勤用の、可愛さの欠片もない鞄を引っ掻き回して携帯電話を取り出す。マスクのせいで画面ロックを解除するのに一手間掛かるのすらもどかしい。画面をガシガシ叩いて、彼とスケジュールを共有しているカレンダーアプリを開いた。

「?!」

赤文字で付いた×印は"仕事が遅いから飯は先に食ってろ(意訳)"である。プロヒーローとして働く上で不規則な勤務は避けられない。寝静まる夜でも平穏を守り続けるのが彼らの仕事だからだ。それにオフィスレディとして齷齪働く自分にだって残業が付いて回る。重なることの少ない食事時をできるだけ共有するためにいれたアプリは、なまえが何度見直したって赤い×を掲げていた。

(……見間違い、じゃないし)

三和土の角にきっちり置かれた黒い靴が、当然ながら家にいるのは泥棒なんかじゃなくて同棲中の彼氏である爆豪勝己だと告げていた。立ち尽くしていても仕方がないと玄関扉に鍵を預けて(あんまりにも私が鍵を失くすから彼がキレながら磁石でフックを付けてくれたのだ)、パンプスを脱ごうと靴べらを取った時だ。

「おせェ。ただいまくらいさっさと言え」

 紺のエプロンを付けた爆豪がリビングから出てきた。その珍しい姿に、思わず言葉が理性と言う名のフィルターを介さずに漏れてしまった。

「ほんとに勝己くんがおうちにいる……」
「アァ!? 俺の家だから帰ってくんに決まってんだろ!」
「そうだよね、いやそうなんだけどさ」

冷房が効いた部屋から流れ込んでくる空気が調理中であろう夕食の匂いを運んできた。なまえの頬が勝手に緩む。基本的に早く家に帰ってきた方が家事をするルールなので、彼の作ったご飯が食べられるのは爆豪が夜勤を済ませた次の日である。決して回数は多くない。匂いだけで既に美味しそうなんて反則だよねぇ、なんて気が抜けた途端に肩から鞄がずり落ちた。

「……はよ着替えてこい。飯が冷めたら殺す」

"ご飯冷めたら悲しくなっちゃうからはやく準備してね(意訳)"。彼の粗暴な言葉尻を翻訳するのにも随分と慣れてしまった。今では昔自分がどうして彼を恐れていたのか思い出せないくらいには同じ時を過ごしている。彼のハイテクスニーカーの隣に自身の黒靴を並べた。汗の滲んだストッキングに磨き上げられたフローリングの冷たさが心地いい。

「はーい。あ、勝己くん」

彼女が寝室に消えるのを見届けた爆豪は、食事の支度のためにキッチンへ戻ろうとする。自分より三倍くらいは大きく見えるその逞しい背中に、なまえはひょいと顔を出して言いそびれていた挨拶を投げかけた。

「ただいま! です」
「ン」

 折角彼と食卓を囲めるのだから可愛い部屋着にしようとタンスを混ぜくり返し、それから慌てて洗面所へ駆け込んだ。化粧が少しよれていた。メイク直しと勝己くんを待たせることを天秤にかけて、後者を尊重する。流行の感染症が怖いので手洗いうがいはきっちり済ませてキッチンに向かうと、既に夕食の準備が完璧に整っていた。

「わぁぁあ! 美味しそう、って、……え?」

同棲を始める際に一緒に買いに行ったテーブルクロスの上には種々の料理が並んでいる。

「……んだよ、何か文句あっか」

長形皿に鎮座するのは鰈だ。唐茶のタレを纏った姿煮の横には飾り切りの施された人参が添えられている。薄青の丸皿にはさやえんどうの緑が眩しい肉じゃがが盛られ、隣の皿には見るからにふかふかの卵焼きが載せられていた。和食一辺倒かと思えば、鍋のまま湯気を立ち昇らせるクリームシチューも見える。……どれもこれもがなまえの好物だった。

「文句なんてあるわけないよ! え、勝己くんどうしたの??」

小食を考慮してくれてか幾枚もの取り皿まで用意されている。爆豪が家事と言えども手を抜かないことは周知の事実として、"すべてなまえのために用意しました(彼語で言うなら「優しいこの俺様がクソなまえのために用意してやった」だが)"と言わんばかりの品揃えになまえは眩暈がした。

 これだけの品数、また手のかかる料理を揃えることはきっと爆豪にとっては造作もないことなのだろう。けれどそれは苦労がないこととイコールにはならない。単純計算として品数が増えるだけで調理時間もかかる。昨日どころか今朝だっていつも通りに出社してヒーロー業務をこなしているのだ。どうして私のために、いいや正確には、今日と言う日にここまで手を尽くしてくれたのかなまえは分からなかった。

「ッチ、いいから食え!」
「え? え、ああ……いただきます」

荒々しく箸を掴んだ爆豪が、それでも所作は美しく肉じゃがを口に運ぶ。なまえの疑問は解消されないまま食事が始まってしまった。黙々と爆豪が夕食を食べ進めるのでなまえもそれに倣うしかない。目の前に並んだぴかぴかの料理たち、どれから手を付けていいのか分からない。結局、自分の正面に置かれていた鰈の煮つけに箸を伸ばした。

(! 美味しい……!)

淡泊な旨味がふわふわの白身から溢れ、そこに醤油と砂糖で出来た餡が絡んでいるのだから不味いわけがない。

(……でも、勝己くんなんで不機嫌なのかな)

二口目のお魚を食べる前に、そうっと彼の顔を覗き込んだ。ばち、と眸がかち合う。深緋のガラス玉はやはり不機嫌な瞼にのし掛かられていた。爆豪がお箸を茶碗の上に置く。ぴっちり揃えられた箸先が、これから飛び出すであろう彼の言葉の粗暴さとは相反していた。

「俺は、お前にんな顔させたくて早く帰ってきたわけじゃねぇ。飯だってクソなまえの好みなんか放っぽいて麻辣一色にするわ!!」
「えっ、突然怒んないでよ、なになに、怖いよ」

"んな顔"と言われても今自分がどんな顔をしているのか分からない。ああ、やっぱりお化粧直してからご飯食べるべきだったかな、なんて見当違いだと分かっていながら思考が飛んだ。私が間髪入れずに「怖い」と告げたからか、彼が唇を真一文字に結ぶ。それを見届けて、私もゆっくりお箸をご飯茶碗の上に座らせた。

「お前が、」
「……なぁに。かつきくん」

ほんの少し抑えられた声量が、彼にとって私が、わがままを叶えるに値する人間なんだと言っているようで、そんな些細な変化ですら心がくすぐったくなってしまう。あれれ、さっきまで悩んでたはずなのにな。万華鏡もびっくりな心模様の変化が起こるのも、全部勝己くんのせいだ。つられて私の声色まで丸くなる。

「なまえが! 去年、同棲記念日だなんだ騒いだくせに、俺が家帰ったらソファで寝こけとったんだろうがッ!! 挙句の果てに風邪まで引いて寝込みやがって、」

彼が立ち上がった拍子に机が揺れて、それを追いかける様にシチューの鍋に波が立った。乳白色から透き通った玉葱が顔を覗かせる。そんな一連を視界の端に捉えつつも、私は勝己くんから目が離せなかった。

 そう、たしか去年の今日は私が勝己くんを待つ番だった。まって、思い出した。今日の彼みたいに私は机の上に沢山の料理を並べて待っていた。勝己くんが好きな花椒たっぷりの麻婆豆腐とか、私の好きなドリアとか。それはもう和洋中ごちゃごちゃで、自分でも苦笑していた。……その晩、緊急の要請で勝己くんは日付が変わってから帰ってきた。一緒に食べると決めていたから、ソファで彼の帰りを待ったまま眠ってしまったのだ。多分、帰宅した勝己くんに「おかえり」は言ったと思うけど、その返事が何だったのか、いま考えてもよく思い出せない。

「勝己くん、覚えててくれたんだ」

彼のとは違って、小さな私の声はシチューの水面を波打たせない。中途半端に浮き上がった腰を、けれど落ち着かせるのももどかしそうに勝己くんが着席する。椅子を引き寄せた拍子に、あ、また白が揺れた。

ヒーローとして歩みを進める彼と暮らしていて、食事を一人で取ることや、広いベッドの中で縮こまって眠ることは決して珍しくない。

「……えへへ、うそ、やだ。すっごい嬉しいや」

けれど、朝食の匂いと共に目覚めたり、気が付いた時には勝己くんの腕の中で微睡んでいることもまた、珍しくないのだ。

仕事の忙しさにすっかり飲み込まれていて、記念日だということは認識していても特別祝うという発想がなかった。去年の彼に失望して準備する気が失せていたとか、そういう訳ではない。けれど、心のどこかで「まぁ準備しても仕方ないかな」とやや諦めを含んでいたのも本当のことだ。だからこそ、勝己くんの方が記念日を覚えていて、ましてや私のために数々の準備をしてくれたのだと分かると、それはもう"嬉しい"という単純明快な言葉以外では言い表せないくらい、幸せな事実だった。

「……なまえはそうやってヘラヘラ笑ってりゃいいんだよ」

ここまで言わせんな、クソがッ。

言い放つと勝己くんは豪快に鰈の身を掴んで口に放り込み、わしわし白米を食べていく。それを見て私も肉じゃがに手を付けた。……あ、牛肉だ。関西と関東では肉じゃがに使用するお肉の種類が違う。最初のころはお互いに「ありえない!」なんて言ったけれど、そんな文句も今日は鳴りを潜めているらしい。今度私が作る時は豚肉にしてあげようかな、なんてこっそり計画を立てた。

(食べ終わって、お皿洗いして……それから、)

とっておきのアイスクリームで乾杯、いいや完璧主義な勝己くんのことだ。食後のデザートだって抜かりなく準備されているかもしれない。贅沢な晩御飯だなぁ、なんて思わず口元が緩んでしまったら「ニヤニヤしてんじゃねぇ」と叱られた。でもさ、勝己くん。もうちっとも怖くないから言っても無駄だよ、とは言えない。彼の口の端がちょっぴり持ち上がっているのが見えると途端に全部許してあげたくなってしまうのは、惚れた女の弱み以外の何物でもなかった。



title by 約30の嘘
「嗄声」萬さんより
2周年のお祝いに頂きました*



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