シャーデンフロイデを薫せて


「あーもう最悪!!みんな死ね!!」

自宅に帰るなりクッションをボコボコに殴る。
本当は刃物でも刺したいけど、飛び散った羽根の後始末をするのは自分だから我慢ガマン。

「よぉ、随分と荒れてんな」
「荼毘」

我が物顔でソファに横たわるツギハギ男を睨みつける。

「鍵、渡した覚えないんだけど?」
「窓割って入った」
「んぐあ〜!お前も災厄かこのヒモ男〜!!」

口から漏れるのは怨嗟の声。


今日は悲惨な日であった。

大事な会議で居眠りして大目玉をくらい、ずる賢い後輩の失敗を押し付けられ、無能な上司には鬱憤を晴らすように罵詈雑言を浴びせられ、お局様にはいつも通り嫌がらせを受けた。

同期達の下らない個性℃ゥ慢のマウント合戦には巻き込まれるわ、なんとなく頭とお腹が痛いな、と思ったら来週の予定だった生理が始まり新しい下着をお釈迦にした。

今日はもうダメな日だ、と腹を括って早退すれば天気予報は大ハズレ。帰路で突然のスコールに見舞われ全身びっしょびしょ。

トドメにお気に入りだったパンプスのヒールが折れた。私の心も折れた。しかし明日も仕事がある。もう会社爆発しないかな。


グチグチと垂れ流した言葉に、男は同情の色も見せずにしれっと応えた。

「そりゃ災難だったな。ヤることヤって嫌なことは忘れようぜ」
「話聞いてた?生理なんだってば」
「避妊の手間無くていいだろ」
「こ、このクズ野郎!」
「敵だからな」

雨で額に貼り付いた前髪をそっと指で掬って、荼毘は恭しく口づけてきた。

「で、そろそろ表社会に見切りをつける決心はついたか?」
「私に何かした?」
「いや?今日のはお前の運が悪かっただけだ」
「そう。じゃあ、私は明日もあのゴミ溜めみたいな会社で働くよ」
「ふ、そうかよ」

頭を優しく撫でてくる手から逃れて、部屋の引き出しから煙草の箱を取り出す。

「荼毘、火」
「ライター扱いか?酷ェ女だな」
「んふふ、敵のヒモ男よりマシ」
「禁煙はどうした」
「今やめた」

青い炎が灯り、煙草がジリジリと焼ける。
深く息を吸い込み、ふうっと紫煙を吐き出す。
ああ、これだ。私に足りなかったのはニコチンだったのだ、きっと。

ぷかぷかと煙草をふかしていると、荼毘が箱に手を伸ばしてきた。大人しく中から一本取り出して、彼に咥えさせてやる。
だが、火も着けずにじっとこちらを眺めているものだから、思わず眉をひそめた。

「吸わないなら返して」
「火、分けてくれよ」
「自分で着けなよ。ライター切らしてるんだけど」
「今咥えてんだろ。寄越せ」

一瞬きょとんとして、シガーキスのことかと合点がいき、顔を顰める。この男は、どこまでも私を誑し込みたいらしい。
まあその程度、別に嫌でもないのだけど。

「ん、」

顔を近づけて、煙草と煙草を触れ合わせる。
目を伏せた荼毘は男なのに美しくて、ちょっとばかり見惚れてしまう。
互いに息を吸い、火が着いたのを確認してから離れた。

「お前はイイ女だよ」
「は?なに、いきなり」
「こっち側のが生きやすいだろうと思って勧誘してる。今のお前の生き方は無駄だらけだ」
「私とアンタは、たまたま線と線が交わって今一緒にいるだけ。住む世界が違うよ。私は自分の力で幸せになる。一緒には行けない」
「ハッ、こりゃあこっ酷く振られたな」

短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
それと同時にずい、と眼前に突き出された鍵を見て目を丸くした。私の家の鍵だ。

「え、合鍵?何これ、いつの間に」
「お前が寝てる隙にちょっとな。もう使わねぇから渡しとく」
「窓は?」
「割ってねぇよ。安心しろ」

じっとりと合鍵を睨め付けていると、ふと視界に影が落ちる。
反射的に顔を上げれば、唇に噛み付かれた。
舐るようなこのキスが、私は大好きだった。

「餞別に、あの会社燃やしておいてやろうか」
「ばーか。会社爆発しろってのは誰でも思うことだよ。辞める前に倒産させてやるけどね?」
「そういうトコが向いてるってんだよ」
「どうも、ありがとう」
「可愛くねぇヤツ」

ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられて、目を閉じる。
目を開いた時には、荼毘は背を向けていた。


きっと、もう会うことはないだろう。


バタンと呆気なく閉じられた扉から意識を背けて、再び煙草を咥える。

「敵連合摘発されたらニュース見ながら笑ってやろっと」

ライターを探して、切らしてると自分で言ったのを思い出し、ため息をついた。


「最後に火、着けてもらえばよかった」


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