金曜日のペトリコール


しとしとと雨が降る花冷えの日。

出勤や通学のため各々目的地に向かう、傘を差した人たち。それに紛れてわたしも歩く。
ここにいる人々は、隣に敵がいるなんて考えもしないのだろう。のん気なことだ。

雑踏の中では他人の顔をいちいち確認したりしない。でも雨の日は特に、傘や独特の空気のせいで、群衆の顔が無くなったように錯覚する。

逆に傘を差さない人間は、空間から切り取ったように目立つものだ。少なくとも、彼はわたしの目に留まった。


人の波から抜け出して、水溜まりを避けながら歩く。
相手の赤い瞳はこちらを捉えているから、わたしの存在には気づいた上で動かないのだ。面倒くさい人。

降り頻る雨の中、濡れねずみと化した彼にちょっとだけ傘を傾ける。
露先から落ちる水滴が不快だったのだろう、大層不機嫌そうな顔で睨まれてしまった。

これでも少しは譲歩したのだ。
わたしだって濡れたくないし、傘はさほど大きくないし、相手が死柄木でなければ気に掛けもしなかった。

だというのに死柄木は、無遠慮にわたしの手ごと傘を掴んで距離を詰めてきた。もちろん五指は触れないように、最低限の配慮はしてくれている。
でなきゃ今頃わたしは塵芥だ。
が、大きくもない傘の中で密着すればわたしの服も当然濡れる。サイアク。

「ちょっと、わたしまで濡れたんだけど」
「大事なボスが風邪ひいたら困るだろ?」
「それ以上濡れたって変わんないって」
「減らず口を叩くなってお前に一番言いたくなる言葉だよな」
「そりゃどういたしまして」

軽口を言いながら、結局ひとつの傘を分け合って、肩を並べて雨の中を歩く。

ぱしゃりと隣で水溜まりが跳ねた。


「そうだ知ってる?雨が降ってる時の傘の中って、一番人間の声が綺麗に聴こえるんだって」

つまり今わたしの世界一綺麗な声を死柄木は聴いてるんだね、とおどけて笑う。

鼻で笑うか下らない、興味ないのどれかかな。
無反応はちょっと傷つく。なんて考えていたら意外なことに、死柄木はわたしを感情の読めない顔でじっと見つめていた。

「死柄木?」
「だったら俺の一番綺麗な声とやらを聴けるのはお前だけだな?」
「えっ。あ、そう、かな。そうかも?」

今度こそ死柄木は鼻で笑って視線を外した。

わたしはといえば、目に見えて狼狽えてしまったのが悔しくて、ついつい傘を握る手に力を込める。

「拗ねるなよ」
「うるさい」
「はぁ、これだから餓鬼は、」

ちょっとだけ背伸びして、傘を傾けて。死柄木の唇を自分のそれで塞いだ。
目を見開いた彼に、にんまり笑って言い放つ。

「餓鬼は嫌いだ、って?ほんとに?」
「生意気。イラつくなぁ」

傘の柄をしっかり五指で掴んだ死柄木は、どうやらすっかり機嫌を損ねてしまったらしい。
わたしはぼろぼろ崩れた傘に、ぎゃあと色気のない悲鳴を上げた。
タイミングよく、否、悪く、雨足が強まるものだから、途端に頭のてっぺんからつま先まで、水が滴るほどびしょ濡れになる。

「ハハハ、お揃いってヤツだ。嬉しいだろ」
「サイテー!なんなの、もう!」

慌ててパーカーのフードを被る。
まるでペアルックだ。黒のパーカーなんて着て来るんじゃなかった。

死柄木はガリガリ苛立たしそうに首筋を掻き毟っている。こうなるともう手がつけられない。子供大人ってホント厄介。

キスで機嫌が悪くなるなんて、失礼しちゃう。


袖で顔を拭ってちらりと顔色を伺えば、彼は不気味なくらい静かに人混みを眺めていた。

「なあ、今のうちによぉく見ておけよ。平和を享受しておきながら、お気楽そうに、ダルそうに、当たり前のように過ごす人間共を」

ひやりとしたのは、雨に濡れたせいだけではないだろう。
我らのボスは、時々とっても怖いのだ。

「ヒーロー社会を壊してコイツらの日常を、俺たちがひっくり返すんだ。楽しみだなあ!」
「せめて傘職人さん、一人は確保してよ。わたし用にさ」

小さな嫌味に死柄木はぱちりと目を瞬かせる。

手を差し出せば、緩く口角が上がった。機嫌は少々マシになったようだ。


全く、世話が焼けるし手が掛かる。
不機嫌スイッチはどこにあるかもわからない。
こんな人が好きなんて、自分で自分が愚かしい。それでも全部許せてしまうのだから、惚れた弱みとは言い得て妙だ。

人差し指を浮かせて、不恰好に手を繋ぐ。
ガサガサの親指が甲を撫でた。

「ワガママなオヒメサマだな、お前」
「死柄木にはぴったりでしょ。っくしゅん!」
「帰るか」
「うん。黒霧さんに温かい飲み物出して貰お」
「ああ。そういや、前から疑問だったんだが。なんで黒霧だけさん付けなんだ?」
「ほら、彼だけは大人だか、痛い痛たたた!」


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