ただきみのためのぼくだよ


 ゆったりと歩み寄ってきた眠気に促されるまま、なまえは緩慢に瞬きした。パーティー開けされたうすしお味のポテトチップスは八割ほど食べ尽くされており、銀色の内装が覗いている。汗を掻いたグラスには随分と薄まったコーラ、これは二人して―――なまえは眠気のせいもあるが―――映画に夢中になって腰を浮かすのも億劫になっていたせいだ。

 あの特訓以来、虎杖はよくなまえを映画鑑賞に誘うようになった。学生寮の決して広くない彼の部屋に、色違いのグラス、枕とは別の柔らかいクッション、それからなまえのためのひざ掛けが準備されるのは時間の問題で、その代わりと言っては何だが、飲み物とお菓子を持ってくるのは彼女の役割だった。ただ虎杖のベットに腰掛けて、肩をちょんと寄せ合って一つの画面を見つめるのは、まだあんまり慣れていないつもりだ。


『私は人生の半分の時間、あなたを待ってた。けど、無駄だった。……お願い、飛行機に乗って』
『待ってくれ、俺たちはまだ終わってない』
『いいえ、終わるわ。終わったの。お願い、早く空港へ行って』


駅構内のカフェにてフィッシュアンドチップスに手を付けられないままでいた女優が涙ながらにそう訴える。メジャーデビューを目前にした冴えない歌手役の男優は、幼馴染の涙に後ろ髪を引かれながらもマネージャーにせっつかれてカフェの扉を乱雑に―――。


「なまえ、だいじょぶ? 眠い?」


開けた、はずだ。虎杖が顔を覗き込んできたから画面は確認できないけど、バン! と大きな音と共に緊迫感のあるBGMが流れているから、きっとシンガーソングライターが飛行機に搭乗したに違いない。なまえは目尻に滲んだ涙を袖口でそっと拭った。幼馴染の二人の行方が気になるところだが、それよりもすっかり映画から意識を切り離してしまった彼に返事をする方が優先だ。


「へいき。最後までみるの」
「なまえの声すっげぇ眠そう。時間的に……あーそっか。なまえいつももう寝てるもんな」


睡魔に拐かされた声は柔く虎杖の鼓膜を打つ。セミダブルベッドに並んで座っていたから、多少は分かっていたつもりだった。控えめに触れた肩口から漏れ出た体温はすごく熱かったから。忙しい任務の間、ようやくつかみ取ったお揃いのオフ日。一秒でも多く隣に居たくて、それでいて同じ空気を二人きりで吸っていたかったから映画に誘った。DVDも複数チョイスして、今日は所謂"寝かせないつもり"でもあった。

無防備に短パンとTシャツで男の部屋を訪れるくせに、ほんのちょっぴり隣を開けるいじらしさに堪らなく愛しさが募る。彼女の意思を尊重して肩をくっつけるだけにしているけど、徐々に膝頭を近づけたのは完全に虎杖の下心だ。ちょっとくらい心臓が騒いでも後で話に花が咲くように、一度見た映画を再上映していることはなまえには内緒だ。


「やだ。せっかく一緒にいるのに、勿体ないよ」


なまえが、虎杖のシャツの裾を頼りなさげに摘まんだ。幼気なその仕草に虎杖は奥歯を噛み締める必要があった。可愛さで心臓が口から飛び出そう。いや、このままだと出る。熱を下げるために氷の解け切ったコーラを一息に飲み干して、彼は小さなつむじを見下ろした。


「明日も一緒に居れんじゃん」
「ん〜〜……でも………………」
「いいじゃん。俺、なまえの寝顔見たいんだけど」


頼めばなまえがノーとは言えないのを知っているから、虎杖は彼女の手を解いてそっと指を絡める。自分より一回り小さい手の甲はすっかり手指で覆えてしまう。柔らかな皮膚の感触を楽しみながら、な? なんて小首を傾げた。なまえは眠たげな瞳を開閉させて逡巡の時間稼ぎをしている。秒針が一周してようやく結論が出たらしい。なぜだか彼女はやや不満げに唇を尖らせる。そんなことしたって薄紅の唇が艶めくだけなのに、やっぱりなまえは自覚がないみたいだ。

虎杖としてはもう寝ることは決定事項なので、その証拠に彼は躊躇なくテレビを消してしまった。冴えないギター弾きとその幼馴染の恋路はもう分からない。


「……写真撮るとか、ダメだよ」
「えっ」


 虎杖の肩が動揺で跳ねたのを、なまえは見逃さなかった。寝顔はダメだ。口が半開きになって涎を垂らしているかもしれないし、寝相が酷くてシャツが捲れあがっているかもしれない。夜通しの映画鑑賞に誘われた時点である程度は事態を察して、そういう準備―――釘崎に頼み込んで可愛い下着を二人で買いに行った。なんていうか、フリフリの可愛いパジャマはあまりに"意識してる"っぽくて逆に買えなかった―――はしているけれど、画像に残るとなれば話は別だ。なまえは繋いだ手を揺らしながら言い聞かせようと試みる。


「悠仁くん、だーめ、だよ」
「ちぇっ……。んじゃ、さっさと歯磨きして寝よーぜ。あ、なまえ、ブランケットは腰に巻こうな」


写真と添い寝を天秤にかけ、断腸の思いで後者を選び取った虎杖はぴょん、と軽やかにベッドを降りた。薄手の毛布をなまえの腰に巻き付けて即席スカートを作り上げる。洗面所は共用なので一度廊下に出ないといけない。寒さ対策と……あとは男のささやかなプライドだ。ブランケットを巻く際に触れた彼女の腰の細さに不整脈が起きたのを感じながら、虎杖はなまえの手を引いた。

古い校舎だから廊下は冷え冷えとしている。二人はトランポリンでも踏むように足裏を持ち上げて洗面所に急いだ。共用の大きな鏡の前に並んで歯ブラシを構える。一本の歯磨き粉を順番に絞って、泡をもこもこ膨らませる。虎杖が歯磨き中に脇腹を突いてくるので、なまえは危うく白い涎を噴き出すところだった。

幸い誰ともすれ違うことなく、二人は虎杖の部屋へと帰宅する。どちらが壁側で寝るかの攻防を挟んで、なまえがその名誉に預かった。狭いベッドに手足をぎゅうぎゅう折り畳んで一枚の掛布団に包まった。何となく気まずくて、なまえは躍起になって背中を壁へと擦り付ける。


「なぁ、もっとくっつけって。それじゃなまえすげー寝苦しいよ」
「………………」
「よーしよーし、いい子いい子」


すっかり電気の落とされた室内―――虎杖のスマホは勉強机の上に隔離した―――で、なまえは促されるまま、青年の腕にすっぽりと覆われた。さっきまで考えないようにしていた、虎杖の体温だとか匂いだとか、触れる皮膚の感覚や絡まった足の無骨さといったあらゆる情報がダイレクトに伝わって来る。さっきまで眠気は身を蝕んでいたのに、今になってエンジンをフル稼働させた心臓のせいで、寝付きには時間が掛かりそう。でも、この二人きりの空間を味わうには悪くない演出なのかもしれない。

なまえの心拍を知ってか知らずか、虎杖は自身の胸元に小さな頭を抱え込むと柔らかく髪を梳いた。ふわりと薫るシャンプーに自ずと頬が緩む。小さくて柔らかくてあたたかくて可愛くて、とても大切なもの。約束された明日がある幸福を、虎杖は腕に力を込めて噛み締めた。


「おやすみ。明日楽しみだな」
「うん。悠仁くん、おやすみ。また明日ね」


 まさしくゼロ距離にいるのに、明日への楽しみが抑えきれない挨拶が可笑しくて、二人して布団の中で忍び笑いを漏らした。一緒にいると眠くなるのは、相手のことを信頼しており、心の底からリラックスして副交感神経が刺激されるから、らしい。刺激的な恋もいいけれど、愛されるなら陽だまりみたいに優しくてあたたかい方がいい。だってどんなに寒くて孤独な冬が続いたって、必ず日は昇るのだから。


2021.04.18  title by るるる




「嗄声」萬さんより
なみだ70万打のお祝いに頂戴いたしました*
Request:虎杖で映画鑑賞中、お眠だけど渋る彼女を甘やかして一緒に寝るお話



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