しんしんと甘眠


 犬と猫どっちが好き? という質問はいつの時代も壮絶な論争を巻き起こしてきた。なまえは、というと後者にゆっくりと手を上げる。ワンちゃんは可愛い。勿論だ。だが、なまえはどちらかと言うと猫の方が好きなのだ。もふもふに秘められたぷにぷにの肉球、軽やかな跳躍と揺れる尻尾。何よりあの自由気ままで何にも縛られない女王様気質! 甘えたいときに甘えるので、それ以外は触るんじゃねぇという高慢ちきなところが堪らんのだ。現になまえの家にはお猫様が一匹いらっしゃる。彼女に捧げる猫缶の購入費のためなら労働だってへっちゃらである。なんちゃって閑話休題。

だと、言うのに。最近、どうしようもなくワンコの良さに打ちのめされることがある。どっちのほうがより可愛いとか、そういう話ではなく、身をもって犬――正確に言うなら"犬系"――の良さを実感し始めているのだ。


「うぅ、寒い……早くおうち帰ろう…………」


お猫様にお仕えする社畜に平日も休日も、ましてや誕生日なんて関係ない。労働は労働だ。今日も今日とて電車に揺られ、寒波に襲われ、なまえは健気に通勤していた。残業を任せられるのは予定外だがこれも仕方があるまい。オフィス中の電気を消して回って退勤する頃には人通りも既にまばらになっていた。骨を侵食してくる寒さになまえは堪らずマフラーを引き上げる。この間ショッピングモールへ出かけた時に半ば強引に買い与えられたそれは、なまえの鼻頭まですっぽり覆ってしまうほどに大きかった。


(晩御飯どうしよっか……。面倒くさいなぁ)


きゅう、とか細く鳴いた腹はそれ以上は空腹を主張しない。なまえは元から食への執着が薄い性質だ。朝食用に蓄えているはずのヨーグルトを舐めて終わりでいいか、なんて無頓着な考えが脳裏に浮かぶ。コンビニで何か買うことも考えたが、皮膚を脅かしてくる冷感から一刻も早く家に帰る方が優先度が高い。膝にお猫様を乗せ、暖房をガンガンに利かせたお部屋でハーゲンダッツと洒落込むのも悪くない。そう画策して、足早にオフィスに背を向けた時だった。


「オイ、無視とはいい度胸じゃねぇか。クソなまえ」
「……わぁ、忠犬勝己だ」
「誰が犬っころだもっぺん抜かしてみろぶっ飛ばすぞ」
「ごめんってば、つい反射的に……」


 乱雑に襟首を掴まれたせいで大きく背中が仰け反った。ああ、このままだと後頭部とアスファルトがディープキス! ……せずに済んだ。なまえの頭蓋骨はぽふ、なんて柔らかな音に包まれながら男の大胸筋に着地する。毬栗みたいに尖ったクリーム色の髪とツリ目に嵌め込まれたラズベリー。あれ、なんだかお腹が空いてきた。逆さまの視界で勝己の顔を見上げていると、容赦なく鼻を摘ままれた。


「ハ、マヌケ面」


マフラーに守られていたから温かい私の顔面とは違って、彼の指はびっくりするほど冷たかった。爪の舌なんて真っ白になっている。個性の関係上、勝己は防寒対策は万全なのになぁ。と思いながら体を起こす。いそいそとコートのポケットを弄ってカイロを彼に渡そうとすれば、またしても顔面に何かを押し付けられて邪魔されてしまった。


「……本命は明日買い行くぞ」
「ぷは! わ、お花だ! 可愛い……! えへへ、お誕生日覚えててくれたの? 嬉しいな」
「アア?! この俺が忘れると思っとんのか!」
「思ってないです!!!!」


胸元に収まるくらいの可愛いサイズの薔薇の花束。勝己の瞳と同じ色のそれが、ごくごく一般的な品種であると十二分に理解している上で、心臓がきゅんきゅん喜んだ。年が明けて間もなく、ヒーローの忙しい時期の一つだ。だからあえて予定が空いてるか聞かなかったし、なまえも自分の予定を勝己に言うことはなかった。いつから待っててくれたのかな、とか、連絡くれたらよかったのに、とか。寒さでかじかんだのを擦って誤魔化したのだろう、すっかり赤くなってしまっている彼の鼻筋を見ながらなまえは憂慮した。その間にも彼はあっさりなまえの仕事鞄を奪って背中に預けてしまう。頭一つ分の身長差は、仕事用の黒靴で埋まるはずもなく。なまえは大人しく花束を抱えた。

なまえがマフラーを買ってもらったあのショッピングモールで、爆豪もまた冬用のコートを新調していた。彼女が「絶対これが似合うよ!」と言って聞かなかったベージュのダッフルコートだ。何となくダッフルコートと言うのはシルエットが幼い感じがして爆豪自身は躊躇ったのだが、なまえの勢いに負けて試着してみれば見た目以上に暖かくて気に入っていた。こういうところが、この女の悪くねェ所だと爆豪は常々思うのだ(尤も本人にそれを伝えようと言う気はなかったが。間違いなく調子に乗るからだ)。

彼のダッフルコートにはダミーポケットしかない。なまえは片手で花束を抱え込むと、爆豪の手をそのまま自身のコートのポケットへ導いた。カイロが入っているし、何より密閉空間(?)だから外気に晒されるよりずっと暖かいだろう。


「…………ン。オラ、さっさと帰んぞ」
「はぁい」


大人しくポケットに収まった手を、爆豪は一度だけ目線を落として見つめた。それから狭い布の中で指と指を組み合わせる。折角招き入れてもらったのだ、存分に温めさせてもらうに越したことはない。光熱費代わりに、踏み出す一歩はなまえの歩幅に配慮して控えめにしておいてやる。

 夜の街は、その冷たい空気が音を吸い込んでいくためかとても静かだった。閑散としたオフィス街は、アルコールで顔を赤らめた人か、先程のなまえと同じように鼻頭を防寒具に埋めて足早に帰路を辿る人ばかり。それらも酷くまばらだ。なまえの鼓膜を打つのはテールランプを煌々とさせたまま走り去る車の名残と、二人分の足音だけだった。すっぽりと覆われてしまった指が時折ポケットの中で擦れても、爆豪は何も言わなかった。

なまえは何気なく勝己の横顔を見上げた。私の誕生日を覚えていてくれたことも、仕事に区切りをつけてわざわざ迎えに来てくれたことも、どうしようもなく嬉しい。物言いが粗暴だったり、変にみみっち……プライドが高い所は猫っぽいが、やっぱり彼は"犬系"男子だ。本人に言ったら爆破されそうなことを考えていると、視界に見慣れた標識が写ったことに気が付いた。


「あれ、こっちって私の家の方?」
「あ?? ……チッ、店のが良かったのかよ」
「待って待って、びっくりしただけだよ! ほんとにおうちでご飯作ってくれたの?」


ヒーローという職種は原則三交代制なので、日付が変わるような時間でも飲食店の暖簾は下がったままだ。体が資本となる職に長く身を置いているからか、勝己は食事に結構うるさい。というか、大抵の料理は外食するよりずっと上手に作ってしまうから、なまえにとっては彼が作ってくれたご飯こそご馳走だった。るん、と仕事用の黒靴がご機嫌にステップを踏んだ。


「前菜からデザートまで完璧だわ、舐めとんのか」
「勝己のご飯大好き〜〜〜〜!! えーメインなんだろ、当てていい?!」
「ハ、好きにしろや」
「クリームシチュー! 焼きたてバケット付き!!」
「……おー正解だわ。腹破けるまで食いやがれ」
「えっへっへ、おかわりしちゃお」


勝己お手製のクリームシチューは最高なのだ。既製品のルーは使わずに、ちょっとお高いバターで小麦粉を炒めるところから始めるのが何とも彼らしい。皮目をぱりっと焼いた鶏肉に、ほくほくのジャガイモ。蕩ける舌触りのタマネギに、シャキシャキ感を残すために後入れされたブロッコリー。色とりどりの具材たちが真っ白のスープで微睡んでいるのを思えば、さっきまで大人しかった腹の虫がどんちゃんお祭り騒ぎだ。


「あっ、あとね……今日さ、泊ってってくれる?」
「……シーツも毛布も洗濯したったわ、クソがッ!」
「わぁぁぁぁぁぁぁぁい! やったぁ〜〜〜!!」


勝己用のお布団が自分の部屋に敷かれている様子を見るのは何も珍しくないのに、また心がぴょんぴょんした。食事に興味が薄いなまえより爆豪の方がキッチンに立つ回数が多いので、調理器具も彼の使い勝手がいいようにカスタマイズされているに違いない。気が付いたら掃除機だって買い替えてあるかもしれない。自分と勝己の、他人として存在するであろう境界がどんどん曖昧になって生活スタイルが混ざり合っていくのは、「なまえと勝己はそういう関係なんだぜ」って主張されているみたいで無性にむず痒い。でも、結構好きな感覚だった。

 日付を跨ぐような時間でも、今日と言う日はカロリーなんて気にしない。罪悪感? 何それ、シチューと一緒に食べたら美味しいんですか? 誰が何といおうと、今日は二人でパーティーだ。人間ばかりが楽しむのは気が引けるので、我が家の女王たるお猫様にはちゅーるを献上しよう。実のところ、お猫様と勝己は仲が良くない。なまえがソファに座っていると右側にお猫様、左側に勝己、なんてのは日常茶飯事だった。まさに両手に花とはこのことだ。ああ、花と言えば折角彼が持ってきてくれた花束を飾らなくてはいけない。ミルク色の食事と赤の薔薇、きっと食卓が華やかになるなぁ、となまえはゆるゆるの頬が更に蕩けそうになるのを感じた。



「嗄声」萬さんより
2021年花笑みの誕生日祝いに頂戴いたしました*



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