「お帰り、荼毘」
振り向きながら、ひんやりした髪を撫でる。触れるだけのキスを寄越した唇は幾分か温かいものの、服の裾から差し込まれた指は、まるで氷。一瞬にして粟立った私の皮膚を滑り、緩慢な動作で肋をなぞる。
人肌で暖をとろうなんて、贅沢な人。あの頃の私なら、きっとこのまま流されていただろう。でも今は違う。
行儀の悪い手を軽く叩けば「痛って」なんて、ちっとも痛がってやしない声が耳元であがった。
「お風呂沸いてるから入ってきて」
「えー」
「先にご飯でもいいけど、どうする?」
「お前にする」
「それは後」
いい子だからってキスで宥める。ん、と声を洩らした荼毘は口端で笑って、それから浴室へ向かった。
カレンダーに並んでいるチェックマークを増やしてから、シチューを温める。
荼毘と暮らすようになって、二年と少し。壊れてしまいそうな想いを伝え合ったあの日から、私たちの関係はちゃんと前に進んでいる。
例えばさっきみたいに、荼毘が『ただいま』と言うようになった。仕草や表情、手付き、視線、声、言葉。その端々に私へ対する安堵や愛情なんかが窺えて、私ばかりが縋っているように感じられることもなくなった。甘えることを覚えた彼は以前にも増して色っぽく、可愛らしく。傍に居る時は、常にどこかしらが触れていたりする。
冷たいシーツに寂しさを覚える朝も、いつの間にか来なくなった。いつも起きるまで隣に居て、なんならおはようのキスで起こしてくれて、少しだけ体温を分け合う。それから私は仕事へ。彼は『また夜にな』と言い残して、どこかへ出掛けていく。詮索はしない。深追いもしない。
知らないことは変わらずあるけれど、焼死体のニュースはなりを潜め、まるで普通の恋人同士。たぶん、純粋に愛されることをあまり知らないだろう彼なりの愛し方は、ひどく丁寧でまろやかで、くすぐったかった。
「それ何だ?」
「どれ?」
「カレンダーのレ点。昔からずっと付けてるだろ」
「……内緒」
「?」
「ほら、ご飯入れるから座って。あと髪ちゃんと拭いて」
「んー」
気の抜けた生返事に微笑む。大人しく髪を拭きながら座椅子へ腰掛ける姿を尻目に、シチューをよそった。
「いただきます」「どうぞ」なんて。恋人を通り越して夫婦のようなやり取りに、多幸感が膨らむ。ふわふわとした浮遊感は心地がいい。まあ十中八九からかわれるだろうから、口にはしない。
よほどお腹が空いていたのだろう。綺麗に完食した荼毘が「ごっそさん」と手を合わせるまで、そう時間はかからなかった。「お粗末さまでした」って食器を下げる。洗い物を済ませている間、彼はぼうっとテレビを見ていた。
「お前、結構世話焼きだよな」
「なに急に」
「別に何もねえけど、前はもっとこう……掴めねえ女だった」
「お互いさまでしょ」
手を拭いて、伸ばされた指先に呼ばれるまま身を寄せる。服の上から背をなぞる指も、悪戯に首筋を食む唇も、もう冷たくはなかった。
規則的な心音。同じシャンプーの香り。お風呂上がり特有のしっとりした肌。胸を占めるのは、優越感と愛おしさ。吐息と共に脱力すれば、チリッとした痛みに襲われた。
「……荼毘さん、今付けましたね?」
「キスマくらいで怒んなって。明日休みだろ?」
「そうだけど、見えないとこにして」
「はいはい」
エメラルドグリーンのような、アイスブルーのような。底の知れない艶やかな瞳が満足気に笑って、そうして、寄せられた唇。
「なまえ」
おはようからおやすみまで。
私は今、確かな幸せの中で息をしている。
fin.