交錯する恋ごころ



二週間ほど前からの違和感に、溜息がこぼれた。

いつも通り、ホイッスルの音を合図に人数分のタオルを腕に引っ掛け、ボトルを抱えて回る。後輩達はもちろんのこと、花巻や岩泉も「さんきゅ」「ありがとな」と受け取ってくれる。なのに。


「お疲れさま。これ松川の分ね」
「ああ、そこ置いといて」


たったの数秒すら交わらない視線。
鼓動の音が鼓膜を覆って、やけに大きく脈を打つ。

「うん、ごめん……」

行き場を失った手を引っ込め、指で示された隅っこへ置いた途端、目の奥に潜む熱。誤魔化すように、慌てて深呼吸をした。


ついこの間までは、良好な関係を築けていたはずだった。
休憩に入れば傍に来てくれて、くだらない話を笑いながら聞いてくれる。彼は聞き上手だ。いつもはメンバーと一緒のお昼も、二人で食べようって誘ってくれたり、大きな手で頭を撫でてくれたことだってある。
皆より一歩引いた位置で見守っている。そんな大人びた松川の優しさと、時折見せる悪戯っ子のような笑顔に惹かれた。

それが今や、声を掛けようとすれば誰かの所へ行ってしまう。話すタイミングどころか、視線すらさっきの通りで、最近の記憶に残っているのは、全然高校生らしくない広い背中ばかり。認めたくないけれど、たぶん、いや絶対、避けられている。



鳴り響いたホイッスルの音。
コートへ戻っていく松川の姿が、なんだか遠い。

優しい彼のことだから、きっと私がいけないのだろう。気に障るようなことをしてしまったに違いない。全然思い当たる節はないけれど、そんなもの、言い訳にはならなかった。
仮に、謝って許してくれるようなことではなかった場合、じゃあ、どうしたらいいのか。もう私には笑い掛けてくれないのだろうか。あの落ち着いた笑顔を見ることも出来ないのだろうか。そんなのは、嫌だなあ。

耐えた涙のかわりに、また溜息が落ちる。


「ちょっとどうしたの。重くない?何かあった?」
「……あのさ、及川」
「うん?」
「今日さ、ちょっとだけ残ってもらってもいい?」
「オッケ〜。岩ちゃんにはみょうじちゃんから言っといてね」


ウインクとオッケーサインをして、私の肩をぽんぽん、と叩いていった彼は、きっと気付いているんだろう。ちゃらんぽらんに見えて、意外と聡い人だ。「まっつんのこと好きなんでしょ」と図星を突かれたのは、去年の夏だったか。それからずっと、彼女の有無とか、好きな食べ物とか、女の子のタイプとか、いろいろ相談に乗ってもらっている。
私としては笑ってしまうけれど、さすが皆の及川さん。女心をよく分かってくれるから、とても助かっていた。

でもやっぱり、心配してくれるのは松川が良かったな、なんて、及川に失礼か。
もう何度目かわからない溜息がこぼれたところで、不意に感じた視線。振り向けば、こちらを見ている松川と目が合って、すぐに逸らされた。





一年生に片付けを任せて、体育館裏で、ぼんやりと待つ。

言われた通り、岩泉には「放課後借りるね」とだけ伝えた。二つ返事とともに「あんま思い詰めんなよ。ムカついたらクソ川ど突いていいからな」と言ってくれた彼は相変わらず男前だったし、「元気出してネ」と飴玉をくれた花巻は、いつになくイケメンに見えた。それでも、振り向いてはくれない松川の笑顔が、恋しいと思ってしまう。


「お待たせ〜」
「ごめんね。疲れてるのに…」
「大丈夫。どうせまっつんのことでしょ?最近冷たいよね」
「……うん」


やっぱり、聡い人。及川の方から話し掛けてくれたのは、泣いてしまいそうな私に気付いたからだと確信する。とてもいい仲間に恵まれて、今更ながら有難い。

花巻がくれた飴玉を口に放り込む。
こうでもしていないと、浮かんでは消える松川の姿が色濃く滲んで、本当に泣いてしまいそうだった。


「松川、私のこと何か言ってた?」
「んーん、何も」
「そっか……やっぱり嫌われちゃったかな」


おかしいな。もっと強いつもりだったのに、恋ってこわい。まさかこんなに好きだったなんて、自分でもびっくりだ。きっと甘いだろう飴の味も、今はわからない。


「んー…俺的にはそんなことないと思うけど」
「どうして?」
「嫌いになった人のこと、部活中にちらちら見たりする?」


お前も気付いてるでしょ、と言わんばかりの口振りに、数十分前を思い出す。そういえば、すぐ逸らされてしまったけれど、感じた視線は確かに松川だった。


「でも、じゃあ何で…」
「思い切って本人に聞いてみなよ」
「えぇ…聞けるわけないじゃん」
「何で?」
「何でって、そんなの……告白と変わんないよ」


詰まりそうになった息を吐き出す。
いろんなことが脳内を回って、目眩がしそう。
溢れだした黒い霧が、もやもやと胸の内側を覆い始めた頃。まるで払いのけるように小さな希望をくれたのは、及川のあっけらかんとした言葉だった。


「良いじゃん。仮にもう嫌われてるなら、告白したって今以上に関係が悪くなることもないし、全部勘違いかもしれないしさ」
「………そう、だね」


勘違いって可能性は限りなく低いと思う。でも、今以上に関係が悪くなることはないって考え方が、丸まった私の背中を勢いよく押してくれた。

思い立ったが吉日。というよりは、勇気のある内に自分を追い込むが吉。迷っても踏み出せるよう、後戻りの出来ない状況を作ることは、とても大切だった。

及川がいる内にスマホを出して、松川にLINEを送る。明日の放課後、体育館裏で待ってます。絵文字やスタンプを送る勇気までは持てなかったけれど、笑顔の及川が気合いを入れるように背中を叩いてくれたので、なんとか失わずに済んだ。



それでも、本人を目の前にすると、無意識に息が詰まるらしい。一晩眠ったからかもしれない。

ちゃんと来てくれたことに安心はした。ただ、昨晩あんなに考えた言葉が、全く出てこない。とても優しかったと記憶している彼の瞳に色はなく、こちらを見下ろす眼差しにも、温度がない。

久しぶりに正面に立って初めて、松川の背が、とても高かったことを実感する。そうして、いつもは屈んでくれていたのだと知る。こんな私だから、ダメなのかもしれない。嫌だな。目の前で黙って待ってくれている松川のためにも、早く言わないといけない。


「……」
「……」


頭は真っ白で、鼓動の音が耳につく。

こわい。でも伝えないと。どうせもう笑ってくれないなら、今ここで理由を聞いておかなければ、後になってもっと悔やむように思う。


強く握った両手の拳。
少し食い込んだ爪の痛みと、脳裏に浮かぶ及川の言葉が、折れそうな私の心を奮い立たせる。でも、松川の顔は見れなかった。


「ごめん…急に、呼び出して」


瞬きすら耐え、自分の爪先を見つめ続ける。
じわじわと滲んでいく視界を拭う。

好きな人が目の前にいて、苛立ちもせずに待っていてくれて、こんな私の声に耳を傾けてくれているのに、ズキズキと軋む心が痛くて、辛くて、言葉に詰まる。拭いきれない涙がいくつも落ちて、地面へ真っ逆さま。
困ったな。泣き虫じゃなかったものだから、涙の止め方なんて知らない。松川も、きっと呆れている。

そう覚悟したのに、私の頬をすくい上げたのは、大きくて、ひどく優しい手のひらだった。


「なんでみょうじが泣くの」
「っ、……ごめん」
「えっと、謝って欲しいわけじゃなくて」


八の字眉を更に下げた、困ったような顔。
珍しく焦っているのか、泳いでは戻ってくる視線が、徐々に温もりを宿していく。目元をなぞる指先は、まるで壊れ物を扱うかのように、やっぱり優しい。そこに冷たさは微塵も感じられず、私の知っている、いつもの松川だということに安堵する。

溢れてくるのは、好きって気持ちと、身勝手な想い。

少しだけ冷静さを取り戻した涙腺が徐々に締まって、涙が止まる。離れかけた松川の手を咄嗟に掴んだことは、どうか許して欲しい。この手が離れてしまえば、またあの冷ややかな松川になってしまいそうで、とてもこわかった。


「嫌いになった?私のこと」
「え、何で。ならないし、嫌いじゃないよ」
「ほんと?最近ずっと素っ気ないから、嫌われたのかと思った……」
「あー……うん。嫌ってないよ。むしろ好き」


さらりと紡がれた二文字に、一瞬、呼吸が止まった。

甘やかな期待をしかけて、いやいや友達としてって意味もあると思い直しながら、松川を見遣る。けれど、なんとなく赤いその首元は、私の期待を肯定しているようで。

重なった視線が、困ったように苦笑した。


「みょうじは及川が好きでしょ。だから諦めようと思って、距離置いてただけ。ごめんね」


伏せられた瞳。諦めたような、自虐しているような、よくわからない瞳。初めて目にする松川の表情に、私の不安と思考が、ぱちぱちと弾けていく。


「っわ、私が好きなのは、松川だよ」


間違っても及川徹じゃない。
何がそう思わせたのかわからないけれど、私がずっと求めているのは、今握っているこの手だけ。松川一静だけ。


「……両想い、ってこと?」


窺うように身を屈めた彼に、頷いてみせる。

恥ずかしがっている場合じゃない。でも、顔が火照って仕方がない。
さっきまで泣いていたくせに、心っていうのは忙しいらしい。大きく響いている心音が、薄い皮膚を通して伝わってしまいそうだ。
何も言わず、何もせず、ただぽかんとしている彼の様子に、羞恥が募っていく。

思わず離そうとした手は、けれど、松川の方から握ってくれた。そうして引かれるままに傾いた体ごと、あたたかい体温に包まれる。
びっくりしてあげそうになった顔は、後頭部を押さえた大きな手に妨げられた。

視界のない中、鼓膜が拾うのは早鐘を打つ二人分の鼓動。


「ごめん、今やばいから顔見ないで」
「……照れてるの?」
「照れってか、嬉しい」


大きな背中に腕を回すと、私なんて簡単に覆ってしまえる腕に、強く抱き締められた。「なまえって呼んでいい?」なんて、聞かないでよ、そんなこと。

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