波の合間にあいされて



毎日あくせく働いて莫大な時間と努力の結晶である能力を提供する代わりに、これっぽっちの報酬を得る。家賃に食費、光熱費や電気代なんかは絶対ゼロにならない支出で、最低水準の生活を獲得するために働くっていうのは人間に生まれた時点で強制された仕方のないこと。客の機嫌を取り、部下の分まで上司に怒られ、取引先とは腹の探り合い。おまけに世間を騒がせる病原菌のせいで、楽しみだった旅行もライブも全部中止。せめて好きな人の顔でも見なきゃ、そろそろやってられない。

だから許してほしい。会いに来てしまったこと。一週間、私良く頑張ったよ。限界なんてたぶん超えてる。


『待って。すぐ開ける』


モニターで確認したのだろう。インターホンを押してすぐに機械越しの声が聞こえたかと思うと、間もなく扉が開いた。顔を出した一静は目が合うなり色々察したらしい。ほんの少し眉を下げながら口端を緩め「取り敢えず入りな。寒いデショ」と半身をずらすものだから「急に来てごめんね」って謝罪もそこそこにお邪魔した。

玄関先といえど、雪がちらつく外からすれば十二分に暖かい。窮屈なパンプスを脱いでスリッパに履き替える。そしたらもう、ダメだった。別に何週間も会えていないとかそんなわけじゃないのに、全然我慢が出来なくて。体が勝手に動いて、腕が伸びて。

リビングへ向かう大きな背中に駆け寄り、ぎゅうっと縋りつく。


「どしたの。電池切れ?」
「うん……そうみたい」
「そ。俺んとこまでちゃんと来れたの、偉いネ」


当たり前のように足を止めてくすくす笑う一静の声色は穏やかでやわらかく、摩耗した傷口をそっと覆うよう。お腹に回した手の甲をゆるやかに温めていく手のひらが優しい。皮膚に馴染む彼の温度が、ただ――……。


冬仕様の分厚い裏起毛を隔てていたって分かる、がっしりした背筋。成人バレーにちょくちょく参加しているからか、もう社会人になって随分経つっていうのに”脱いだら凄いんです”って感じの体は未だ衰えることを知らない。

ぐりぐり額を押し付ければ、嗅ぎ慣れた一静の香りが肺いっぱいに広がった。


「ね、なまえ。背中だけで満足?」
「……全然って言ったら?」
「そんな窺わなくても抱き締めてあげるよ」
「じゃあ、めいっぱいお願いします」


腕をときながら半歩下がり、顔を上げる。首が痛いのはもう慣れっこ。振り向いたその表情に面倒くささや呆れの色はなく、むしろ嬉しそうにすら見えた。

「お願いされました」と微笑む涼やかな瞳。伸ばされた長い腕に、すっぽり包まれる。ぎゅうってめいっぱい。さっき私がくっついていた時より、ずっと強く抱き締められる。ついでと言わんばかりに頭まで撫でてくれて、子どもじゃあるまいしって恥ずかしさが今更芽吹いた。


そうだよ。私、もう立派な大人なんだよ。全然一人じゃ立っていられないけど、それでも他人行儀な格差社会でこうして毎日息が出来ている。右も左も分からないような、手取り足取り教えてもらわないと動けないような幼稚園児じゃない。面倒を見てもらうばかりの学生でもない。どうやら、そう自分を奮い立たせられるくらいには回復出来たらしいと知る。

一静の声が降り立つ。


「明日休み?」
「うん。でも帰るよ。一静仕事でしょ」
「いいよ。泊まっていきな。丁度さっき風呂湧いたとこ」
「や、さすがに申し訳ないし大丈夫。帰れるよ」


不思議だね。一静に会うまで、もう無理だって思ってたのに。こんな社畜人生やってられるかって、何もかも投げやりだったのに。


「いっぱい充電してもらったから、また頑張れそう」


身も心もすっかりぽかぽかになって、もう充分。名残惜しさを吹き飛ばすため、厚い胸板にうりうり擦り寄る。でも、小さく笑う音が空気を揺すった次の瞬間。


「っちょ、!い、一静……?」


体が浮いて、驚いた。まるで赤ん坊を抱っこするみたいに片腕全体ですくわれ、反対の手が肩甲骨に添えられる。

目と鼻の先。いつもよりうんと近い、視界をまるまま占めるくらいの距離で「今リモートワークでさ」なんて平然と紡がれる言葉に瞬く。


「出社無しで朝起きて、依頼くるまで電話番なんだよね。だから俺にも、一晩充電させて」


まだ足りない、とダメ押しに唇を奪われてしまったが最後、もうどんな強がりも言えなくなってしまった。

back - index