ここはあなたの檻の中



知らない方がいい。

いつだったかそう言った廻さんは、自分のことを話したがらない。聞いても答えてくれない。だから何も知らない。誕生日も歳も、どこに住んでいてどんな仕事をしていて、何が好きで嫌いなのかも。

それが寂しくはあっても、悲しいと思ったことはなかった。たとえ彼を示す個体情報を持ち合わせていなくたって、接する体温はいつも優しい。無個性だと虐げられてきた私を綺麗なものとして扱ってくれる、手袋を介さないこの手のひらが他の何より好きだった。


「お前は少しも怖がらないな」


淡然と届いた声へ顔を上げる。感情の一切を宿さない琥珀色が二つ。私を映しては細まり、伏せり、逸れていく。


「答えなくていい。忘れろ」


力の入っていないふにゃふにゃな片手を好きに触らせたまま、ゆっくりソファの背もたれへ沈んだ彼の瞼が下りる。きっと気付いたのだろう。怖がるも何も、そもそも多くを知らないこと。教えていないこと。それでも離れず拒まず二つ返事で受け入れては、片手で足りる温もりだけを乞う女であること。そうさせているのは、あなたなのにね。

僅かな疎外感が左心房を喰む。廻さんが生きる世界を窺い知る術すら与えられないこの身に、上手く沁み入る言葉なんて用意出来るはずもなかった。だからせめて気休めを探す。必要がなくても何か伝えなきゃいけない気がした、とでも言えば聞こえはいいか。


絡めた指をきゅっと握る。長く骨張った男の指が、光を弾く白い瞼と共に小さく震えた。薄く覗いた蛇のような瞳が泰然と寄越されて、流れるような視線の軌跡があまりに綺麗だと思う。

ただ右心室を圧迫する愛しさばかりが、欠けた心臓を形作る。


「どうして怖がる必要があるの」


私にはあなたしかいないのに。
一度棄てたこの命を拾ってくれたあなたしか、もう愛そうとすら思えないのに。


「この手がたとえ人を殺すものであっても、嘘でも私のために在るって言ってくれるなら、地獄までだって繋いでられるよ」
「……ふ、」
「?」
「くく……っ」
「え、嘘でしょ。笑うとこあった?」
「いや、まさか口説かれるとは思ってなくてな」


品良く持ち上がった口角。幾分か和らいだ眼差し。普段殆ど見せない笑みを湛え「なまえ」と私を呼ぶ艶やかな声に、全神経が惹き付けられる。


「今は忘れていてくれ。全て終わればまた話そう」
「……うん」
「良い子だ」


大丈夫。こうして上手く誤魔化されるのは、初めてじゃない。

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