意識は予感で出来ている


サービス業に年末年始なんてものはない。いつも通り働いて、いつも通りの時間――いや、なんならいつもより遅いかもしれない時間に帰る。世間様がお休みのせいで客は多め。今日は比べ物にならないくらい忙しかった。おかげでささくれた心はボロボロだし、鞭打って連勤をこなした体も死にかけ寸前。家路を辿る足が重くてしんどい。

でも、自分の部屋がある位置に灯りが点いていることに気付き、ちょっと元気になった。

鍵は出さないまま気だるい腕をドアへ伸ばし、震わせることさえ億劫な声帯をそれでも「ただいま」と絞る。胃袋をくすぐる美味しそうな匂いも、大気を揺らす「お帰りー。ちょぉ遅かったな」って声も、玄関先に脱いだまま放置してあるメンズスニーカーも、全部が全部胸を掻き立てた。


「飯出来とうで。先風呂行くか?」
「……さむ」
「ん?」


学生の頃からそう。タイミングがいいというか何というか。私がもう限界って時に、必ず家でこうして待っていてくれる。渡した合鍵をひどく優しい形で活用してくれる。

一度だけ聞いたことがあった。“血ぃ繋がった双子でもないんに、辛いとか苦しいとかなんで分かるん?”って。あの時、治はなんて答えたんだっけ。


「さむがええって言うたら、くれる?」


上手く笑えているだろうか。数多の他人になけなしの愛想を嫌々振り撒いてきたこの表情筋は、まだ笑うことを覚えているだろうか。

驚いたように瞠目した治は、玄関先で立ち尽くす私を「アホ」と罵った。大きな手が伸びてきて、肩が軽くなって初めて気付く。財布とスマホとノートくらいしか入っていないくせしてやけに重かったカバンが奪われたこと。次いでしゃがんだ彼の肩を持つよう言われ大人しく従えば、片足ずつ靴を脱がされた。まるでお姫様みたいな扱いに戸惑ったのも束の間。逞しい腕が疲労困憊の膝裏を支え、軽々浮いた自身の体に驚く。まさかの俵抱き。

そこはお姫様抱っこやろ、とは言わないでおいた。だって私諸共ソファになだれ込んだ治の顔がちょっと不服そう。


「俺があかん言う思た?」
「……あかんとは言わんやろうけど、風呂行ったらな、とか」
「そらベッド入る時やろ。お疲れさんくらい普通にしたるわ」
「ほんなら今して」
「ん」


くしくしこめかみを撫でる手は猫を愛でるかのよう。顔横へ置かれた両肘。天井の照明が遮られ、そうっと迫るアッシュグレー。鼻先が触れ合った頃、呼応するように瞼を下ろせばリップ音が鳴った。


「心配せんでええから、もっとあれしてこれして言いな」
「……なんでもお見通しやね」
「当たり前やろ。俺となまえは一心同体やねんぞ」


聞き覚えのある耳馴染みのいい言葉に“ああそうやこれや”って、あの時の情景を思い出しては笑った。

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