知と不可視にほだされて



ショーケースと睨めっこを続けること約五分。お肉屋さんの良い匂いに空きっ腹が三回鳴いた。おっちゃんの「もう両方買っていきな?」って呆れ声が耳に痛い。有難うおっちゃん。でもここで誘惑に打ち勝たなければ私に清々しい明日はこない。


カニクリームコロッケとコーンクリームコロッケ。確かに両方買えばどっちも楽しめる。実際どっちも食べたくて物凄く迷っているし、もう買っちゃおうかなって揺れてもいる。ただやっぱり、昨晩乗った体重計の数値に愕然とした衝撃がまだ残っている以上、さすがにやばい。何がって、コロッケ二個分のカロリーが。

そろそろ本気でダイエットを考えなければ、またあの小生意気な爆発さん太郎くんにデブ呼ばわりされてしまう。それだけは絶対に嫌。カスとか死ねとかブスならまだはいはいって感じだけれど、デブだけは許せないし許さない。だから我慢したいのに、どれだけ眺めていたって全く決まらないのだからもう辛い。どっちも美味しそうで困る。キラキラ輝くキツネ色が憎い。


「なまえ?」
「その声はかっちゃん」
「なに張り付いとんだ」
「やーちょっとお腹が減って……かっちゃんは?どっか行くとこ?」
「ランニング中だわ。見りゃ分かんだろカス」
「ごめん今コロッケに夢中」
「あ?」


なんだかんだ声を聞けただけでちょっと嬉しくなるくらいには好きな愛しの爆発さん太郎くん改めかっちゃんのランニングウェア姿(冬仕様)は是非ともお目にかかりたいけれど、あいにく今はどれだけ薄目で見ても美味しそうにしか映らないクリームコロッケの虜。

「この子さっきからずっと悩んでてさ。兄ちゃんからもなんか言ってやってよ」なんて再び降ってきたおっちゃんの溜息に、心の中で謝罪する。これでもお店のど真ん中を長時間陣取ってしまって申し訳ない気持ちはある。ただ、まだどっちを捨てても悔いが残るような気がしてならない。

かっちゃんそっちのけでうんうん唸っていれば、寄ってきた横柄な足音が隣で止まった。


「で?どれで悩んどんだ」


存外近く。体感にして鼓膜のすぐ隣くらいで響いた低声にびっくりしつつ、カニクリームコロッケとコーンクリームコロッケを指し示す。


「二個食やいいだろ」
「いやそうなんだけどそうじゃなくて、今月やばいの、マジで」
「ったく、くだらねえモンばっか買ってっからだろが」
「コスメはくだらなくないですぅー。っていうかお金の問題じゃないし」
「じゃあ何だっつーんだ」
「……増えたの」
「は?」
「だから増えたの!た、体重……」
「……」


ショーケースのガラス越し。半透明のかっちゃんは一瞬固まった後、大層な煽り顔でフッと笑った。その上すっかり諦めモードで新聞を広げ始めたおっちゃんに二種類のクリームコロッケを注文するのだからひどい。なんたる屈辱。まさか小馬鹿にしただけでは飽き足らず、ここで見せ付けながら食べるつもりか?おのれ爆発さん太郎……どこまでも下水煮込み……。

ふつふつ沸き立つ恨み言を胸に、相変わらずの整った横顔をジットリ見上げる。平然とお金を払ったかっちゃんが振り向き、赤い瞳と視線の交換。間もなく「オラ」と突き出されたのは、ちょっと油が染みてる紙袋だった。あれ?


「え、くれるの?」
「いらねーんなら、」
「あああ待って待って!いる!めっちゃいる!」
「チッ」


さもうるさいと言わんばかりの舌打ちが全く気にならないあたり、クリームコロッケ様は偉大だ。「いんならいるで早よ持てクソが」とガサガサ揺らされた紙袋を慌てて支え持つ。はあ、良い匂い。幸せ。きっと齧ったらサックリとろとろなんだろう。熱々の内に食べてしまいたいと思いを馳せる。けれど悲しいかな。今まで散々悩んでいた原因である体重を忘れられようはずもない。

若干泣きそうになりながら、黒いランニングウェアの袖を引く。


「ありがとかっちゃん。凄い嬉しいんだけど、やっぱ二個はいただけな、」
「おいコラ待てクソ。誰が全部やるっつった」
「……うん?」
「勝手にてめえ一人で食う気になってんじゃねえぞ。二個とも半分俺ンだわ」


わぁったらとっとと先歩け。

やや雑に腕を掴まれ、店前から連行される。予想の斜め上をいった意外な気遣いが上手く呑めず、半ば放心状態の鼓膜を大きく震わせたのは、始終呆れていたおっちゃんの「どーもねー!」ってにこやかな声だった。

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