まだ夜にならない二人



コポポポポ――……

お揃いのマグカップに沸いたばかりのお湯を注ぐ。真っ白な湯気とともに香り立つ、ほうじ茶特有の芳しさ。軽く混ぜたティースプーンをシンクにさよならし、テーブルへ。ネクタイをほどきソファへ腰を落ち着けている廻さんは、先に食べることなく待っていたらしい。手土産にと買ってきてくれたお高いお寿司は、一つも減っていなかった。

そえた小指をクッションにマグカップを着地させ、拳一つ分あけた隣へ座る。「待っててくれたんですね」って微笑みかければ「お前のために買ってきたからな」って、なんとも嬉しい言葉が返ってきた。どうやら好きなネタを選ばせてくれるつもりらしい。といっても全部二つずつあるのだから、そこまで気を遣う必要はない。さほどお腹がすいていないのか、一緒に食べたかったのか。どっちだろうなあ。

緩む頬をそのままに、割り箸をパキン。
二人揃って手を合わせ「いただきます」。


こうして廻さんとご飯を食べる夜は、そう珍しくない。決して多くはないけれど、出来るだけ私と過ごす時間を作ろうとしてくれている。事務所じゃ気が休まらないからって訪ねてきたり、そのまま泊まっていくことだって少なくない。おかげでこの家にも、随分彼の私物と思い出が増えた。もちろん合鍵も渡している。まだ使ってはいないようだけれど、いつかその内『ただいま』って帰ってきてくれることを夢に見ている。




「はー、美味しかった。明日はお休みですか?」
「ああ」
「私もお休みなんですけど、もしかして合わせてくれました?」
「……だったら何だ」
「いいえ。幸せだなあって思いまして」


マグカップを両手で支え、すっかり満腹状態で背凭れに沈む。廻さんはほんの少し口端をゆるめ「安い幸せだな」とお茶を啜った。いつだって鼓膜を惹きつける艶やかな低音が、胸の底へじんわり滲みる。あったかくて優しくて、心地よくて、くすぐったい。全部引っくるめて言い表すなら、そう――愛おしい。

もっと聞きたいと思う。もっと長く、肩と肩が触れ合えるこんな近しい距離で、ずっと浸っていたいと思う。何でもいい。意味なんかなくたっていい。世界で唯一大事な人。この心音を穏やかに乱す、たった一人。


「全然安くないですよ。とっても高級です」
「煽てたところで何も出ないぞ」
「廻さんも?」
「ん?」
「廻さんも出ませんか?」
「……」


悪戯に隣を見上げれば、黄金色の双眼が瞬いた。長い睫毛。なめらかな肌。つんとした鼻。品のいい口元から離れたマグカップがテーブルへ戻され、私も倣う。

考えるように数瞬の間を置いた廻さんは、白い手袋を片方はずした。ヤスリでもかけているのか全然痛くない爪先が伸ばされ、頬へ触れる。薄い皮膚をなぞり、こめかみを伝って髪を梳いていったかと思えばまた戻ってきて、今度は指の背でゆるゆる目元を撫でられた。彼の蕁麻疹が心配になるのは、もう癖のようなもの。そういえば私だけ大丈夫になったんだっけって思い出し、ふんわり浮かぶ優越感。

穏当な黄金色が、ふ、と細まった。


「随分嬉しそうだな」
「すみません、つい」
「いや、いい。そのままでいてくれ」


ゆるやかに私を囲う低音が「なまえ」と注がれる。未だ揺らがない視線。その眼差しも声も手付きもあんまり柔らかくって、どうしようもない温もりが、やっぱりじわじわ滲んでいく。組から恐れられる彼は私の前でだけ、ただの男の人になる。

思わず口を突いた「もう一回呼んでほしいです」っておねだりは「一回でいいのか?」なんて、笑い混じりに許容された。

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