優しさだけが跳ねる町



――待ってください。みょうじさんって元が猫なんですか?


困惑した様子の相澤さんに頷きつつ、お気に入りのカフェでお茶をご一緒したあの日から早二ヶ月。最近の要請リストに『イレイザーヘッド』が全く見当たらず、なんだかセンチメンタルな今日この頃。

尻尾を垂れさげてしょんぼりしながら庇を伝っていれば、菫色の髪をした男の子と向き合っている黒いシルエットが視界の端を掠めた。ボサボサの髪に年季の入った捕縛布。会話までは聞き取れない。でも、断片的に届く低い声は特有の響きを胸に残す。

相澤さんだ。

なんて偶然、なんて奇跡。そわそわ落ち着かない心を抱えたまま、お庭を挟んだ向こうの塀へと跳び移る。


一瞥を寄越した菫色の彼に覚えはない。緑のラインが目を引く灰色ブレザーから察するに、おそらく雄英高校の生徒だろう。校外学習か特別授業か、あるいは何かの買い出しか。どうせならプライベートで会いたかったなあ。ううん。贅沢は言うまい。

相澤さんの後ろ、塀を背にしている彼の後頭部が真正面に見える位置まで近寄る。いつもの如く前足をそろえ、最悪諦めることも考えながら話せるタイミングを伺っていれば、ちらちら逸れる生徒の視線を訝しんだのだろう。「さっきから何見てんだ」と、お目当てが振り向いた。

相変わらずの気だるげな三白眼。私を映すや否やまあるくなったそれに、お辞儀をひとつ。


「こんにちは、相澤さん」
「……どうも、みょうじさん」


瞬きを経て元に戻った眼差しが、ちょっとやわらかくて嬉しい。尻尾の先がゆるゆる動いていることが自分で分かって、撫でられてもいないっていうのに、自然と喉が鳴った。


「ご無沙汰してます。お出かけですか?」
「はい。ちょっとそこまでお散歩です。良いお天気なので」
「そうですか。意外と近くにいらっしゃって驚きました」
「ふふ、そうでしょうとも。気配を消すのはお得意ですから」


だって私、猫だもの。

人間に変身出来ると知ったのは、もう随分と昔のこと。当時から両親はおらず、兄弟も知らない。雨曝しの公園で、時折餌をくれる人達に甘えながら育った。だからこれが遺伝なのかそうでないのか、他に個性を持った動物がいるのかどうかも定かじゃない。あんまり気にしたこともない。ただ交友の輪が広がって、楽しいことや嬉しいことが増えて、よりたくさん可愛がってもらえて。ついでに美味しいご飯にありつけるなら、それで良かった。

今は月イチくらいで相澤さんに会えると、モチベーションが保てて尚好ましいかもしれない。とにかくヒトの世界も猫の世界も、どっちも面白くって好き。


「猫が、喋ってる……」


思わずこぼれ出てしまったのだろう。相澤さんとはまた違った色を纏う小さな呟きに、にんまり口角を上げる。初めまして限定の、まるで信じられないものを見るようなこの反応は、どんな種族もそう変わらない。


「こんにちは」と、今度は意図的に尻尾を振ってみせる。

気のない瞳、眼の下を縁取る隈、尖れば摘めそうな薄いお口。教え子ともなれば似てくるのか何なのか、初めて猫の姿で話した時の相澤さんが重なる。動揺をたっぷり孕んだ控えめな挨拶もそっくりそのまま。


「えっと、イレイザーのお知り合いですか?」
「はい。お世話になってるみょうじです」
「プロのヒーローでな。たまに現場で会う」
「菫色くんは教え子さんです?」
「ええ、まあ。俺のクラスじゃありませんが」
「(菫色くん……?)」
「おい心操、挨拶」
「あ、すみません。一年の心操人使と言います」
「しんそーひとしくん。良いお名前ですね」
「……有難うございます」


一瞬曇った表情に瞠目。ヒトっていうのは名前を褒めると少なからず喜ぶ生き物だと認識していたけれど、どうやら例外もあるらしい。

なんだか悪いことをした気分だなあってアスファルトに着地。お詫びとご挨拶を兼ねて、すりすり心操くんの足へ擦り寄ってみる。たぶん謝るより、こっちの方が良い。だってさ。救えたはずの命が救えなかったり見ていることしか出来なかったり、誰が悪いわけでもない、個性上どうしようもなかった現場で、それでも自己嫌悪に苛まれてしまう優しい相澤さんが、そうだから。下手くそな言葉をかけるより、このつるふかな手触りで癒されてもらう方がずっと早い。

結果的に私の選択は正しかったようで、ゆっくりしゃがんだ心操くんの眦が年相応に和らいだ。高校生って可愛いね。


「猫好きです?」
「はい。とても」
「んふ、良かったです」
「撫でさせてもらってもいいですか?」


礼儀正しいお伺いに、ほっこりにこにこ。ええ、ええ、もちろんですとも。いつだって可愛がってもらえるよう毛艶は整えてある。一体どこを撫でてもらえるのか。頭か背中か、腰かお腹か。

けれど触れられることはなかった。私が“どこでもどうぞ”とスタンバイする前に、牽制混じりの硬い声が心操くんの指先を止めた。


「見た目は猫だがプロ相手だぞ」
「え、私気にしないですよ?」
「気にしてください。あなた仮にも、その……」


珍しく言い淀んだ相澤さんの視線が逸れていく。別にプロヒーローだからって、撫でることが失礼にあたるわけではない。むしろ私からすれば、ファンの子に握手を求められる感覚と変わらない。相澤さんだって、今まで何度か撫でてくれている。それでも生徒を窘めた理由は、じゃあ、何だろう。

『仮にも』って言葉の続きを探す。

私の仮初めといえば当然ヒトの姿で。そもそも他人に対する関心が希薄である相澤さんが、これまで気にかけてくれたことを記憶の底から掬いあげる。怪我、体調、帰宅時間、歩幅――ああ、もしかして。


サービス代わりに心操くんの手へ尻尾を擦り寄せ、相澤さんの足元へ。両前足を浮かせ、本日第一回目の変身。

もちろん男性の平均以上に高い相澤さんの背丈には到底及ばないけれど、猫の目線よりはうんと顔が近付いて、薄い布越し。がっしりした骨組みが感じられるその腰へ、指を添えつつ寄りかかる。人肌って微温湯みたい。

頭一つ分か二つ分先。色濃く動揺を映した瞳が、僅かに揺れる。


「雌だから?」
「、」


分かりやすく固まった相澤さんは、けれどすぐに「雌て……」と溜息混じりに俯いた。反応から察するに、どうやら答えは合っているらしい。言い方は違ったみたいだけど。あれか。女の子って言わなきゃいけなかったのか。ヒトの言葉って難しいなあ。

緩やかに肩を押され、半歩離れる。


「そんなこと気になさるんですね」
「そりゃ、まあ……」
「ちょっと意外でした」
「……」


口を噤んだ彼は、私の後ろ。どんな顔をしているのか想像もつかない心操くんを一瞥した。生徒の前じゃあ話しにくいのかもしれない。先生も大人も大変だ。真っ直ぐそのまま生きればいいのに、体裁だなんだって気にしなくちゃいけない。それが染み付いて、ありのままが引っ込んでしまう。

名残惜しいけど、そろそろお暇しよっかな。あんまり時間を取ってしまうのも気が進まないしね。


後ろ髪を引かれる思いで猫の姿へするりと戻り、彼の肩を踏み台に塀の上へと登る。尻尾を一振り。前足そろえて、お辞儀をぺこり。


「次はお茶でも飲みながらゆっくり話しましょーね。心操くんも、また会う日まで」

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