胸にかかえて歩いてゆけるすべて



浄水を喉に通したほかほかのお風呂上がり。カーディガンを羽織ったところで、インターホンの音が響いた。またセールスかなってモニターを見遣れば、四角く縁取られた廊下。共用灯が照らす明るみの中に映る、見慣れたシルエット。

誰かなんて考えるまでもなかった。脳と神経が繋がるよりずっと早く。反射的に駆け出した足で、玄関に出しっぱなしのクロックスを踏む。素足のまま、押し開いた扉の向こう。


「はじめ!?」
「うおっ」


あまりの勢いに驚いたのだろう。肩が跳ね上がると同時に丸まった瞳を、けれどすぐに細めたはじめは「よ」と笑った。


「どしたの?何か約束してた?ごめん私全然、」
「おーおー落ち着けなまえ。俺が勝手に来ただけだ。連絡もなしにわりぃ」


大きな厚い手にくしゃくしゃ頭を撫でられ、沸騰していた焦りが沈下する。

髪、乾かしといて良かったなあ。いつもは寝る間際まで放置してしまうけれど、今日はなんとなく気が向いたのだ。濡れた状態じゃあ、きっと気を遣わせてしまっていただろう。


片手で扉を支えてくれたはじめに甘え、腕を引っ込める。何か用事があるのか、ただ会いに来てくれたのか。分からないなりに「時間大丈夫なら上がってって」とフローリングへ戻る。律儀な「お邪魔します」が聞こえてすぐ。彼の背後で扉が閉まり、ガサッと紙袋の音がした。


「サークル帰り?」
「おう。ちょっと打ったくれえだけどな」
「そっか」


うん。楽しそうで何より。

「適当に座ってて」とお鍋を確認する。作り置きのカレーは丁度二人分ほど残っていて、温めなおそうと火をつけた。幸いご飯は炊けている。お母さんからもらった福神漬けも冷蔵庫に眠っているはず。後はサラダでもあれば足りるだろうか。基本的に一汁三菜な岩泉家で育った彼。ご馳走する時にちょっとだけ悩むのは、いつものことだった。

そうこうしている間に、洗面台で手を洗ってきたらしい。「良い匂いすんな」と隣に立ったはじめは、勝手知ったる棚からお皿を出してくれた。



ローテーブルに夕食が揃ったところで「いただきます」。暖房に包まれた室内は快適そのもの。バラエティー番組の朗らかな笑い声が鼓膜を揺する中、時折混じる低音が愛しくて、つい笑みがこぼれる。

視線を上げた右側。止まることなく動くスプーンは、美味しいよって言ってくれているかのよう。それだけで嬉しかったのに、ほどなくして綺麗に完食した彼の口から「ご馳走さま。美味かった」なんて満足そうな言葉が聞けて。もう、どうしたらいいんだろうね。

胸に溢れてやまない幸福を噛み締めながら、照れくささを隠して笑う。お粗末さまでした。


洗い物をするのは彼の役目。いつの間にか定着した暗黙の了解のもと、一休みを挟んでから食器がさげられる。ニュースに切り替わったところでテレビは消した。スポンジの泡立つ音、食器が重なる音、流水音。そんな、至って普通の生活音までもが嬉しいだなんて、我ながらちょっと可笑しい。

勝手に緩む頬がなんだか恥ずかしくて、誤魔化すように寝転がった視界の端。ふと気になったのは、はじめが提げてきた焦茶色の紙袋。光沢のあるしっかりとした大きなそれに見覚えはない。


「ねえはじめ?」
「ん?」
「サークルの後、買い物でも行ってた?」
「……ああ、それな」


私の言わんとすることが分かったのか。耳馴染みのいい足音を連れて、すぐ傍までやって来たはじめは紙袋を持ち上げた。ラグマットにあぐらを掻き、やや気まずげに逸れた視線。

珍しい様相を不思議に思いながら上体を起こす。向き合うように座り直せば、ずいぶん改まった声が私を呼んだ。そうして「お前に」と、中から取り出されたのは――


「お花……?」


そう。綺麗にラッピングされた大輪の花束。

折り重なったフリルのように波打つ花弁は、母の日なんかによく見かけるカーネーション。でも、色合いだろうか。受ける印象は全然違った。エネルギッシュな二輪の橙色をアクセントに、全体の殆どを占める青紫の濃淡があまりに綺麗で、一瞬呼吸を忘れた。隙間を埋める真っ白なカスミソウが可愛らしい。

腕の中。甘く優しい、花の香り。


「何がいいか分かんねえから、お前っぽくて珍しいやつにした。ムーンダスト?って言って、あんま売ってねえんだと」
「……」
「今日で五年記念だろ。今更かよって感じだけど、いつもありがとな」


照れくさそうな笑顔に思い出す。高校一年の今日は『部活優先になってもいいなら』って条件付きで、はじめが私の告白を受けてくれた日だった。すっかり忘れていた。というより、お互い部活があったりバイトがあったり。大学生活も何だかんだ忙しく、そもそも記念日を祝う習慣ってものが存在しなかった。誕生日やクリスマス、年越しにバレンタイン。日取りを気にするイベントといえばそれくらい。

もしかしてここ最近、ずっと気にかけてくれていたのだろうか。別に何もなくたっていいのに。ただ、いつでも心が交わせるこんな距離でいられるなら、それだけでよかったのに。私のために悩んでくれて、選んでくれて、わざわざ家まで来てくれて。


「……私の方こそ、ありがと」


ああ、どうしよう。目の奥が熱い。涙腺が震えて、喉が詰まる。じんわり滲む、幸福ばかりの鮮やかな世界。

今にもこぼれてしまいそうな涙を堪えながら、世界で一等好きな名前を呼ぶ。溢れる想いを音にする。降ってきたのは優しい眼差し。無骨な指がこめかみをなぞり、覗き込むように寄せられた鼻先が触れ合う。


「俺も。なまえが好き」


そっと花束をよけた腕の中は、陽だまりみたいに温かかった。

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