溶けるおとな



体温計が音を立てる。見慣れた天井。薄暗い室内。あったかい毛布。徐々に鮮明さを取り戻していく視界には『37.6℃』のデジタル表示。今朝より下がったなあって頭上のペットボトルを引き寄せた時、キッチンと洋室を隔てる引き戸が開いた。

「何度?」

顔を出したのは鉄朗くん。もう聞き慣れた低音に喉を潤しながら体温計を差し出せば、ベッド脇へと寄ってきた。「まだちょっとあんな……」と、さして表情を変えることなく枕元へ置いた手が伸びてくる。洗い物を済ませてくれていたのだろう。首筋に触れた温度は、ひんやりしていた。


「寒気は?」
「ううん、大丈夫」


首を振ろうとしてやめる。微熱特有の鈍い痛みが、まだ残っていた。枕に沈み直し、毛布に包まる。「じゃあもうひと眠りだな」なんてなめらかに髪を梳く指が優しくって、目を閉じる。脱力するとともにゆっくり萎んでは膨らむ肺。なみなみ胸を満たす安心感。ふつふつ浮かぶ劣等感。

なんだかなあ。
私の方が年上なのに、なんだかなあ。

紡いだ謝罪は少々掠れてしまったけれど、返事代わりに鼓膜を揺すった彼の吐息は微かに笑っていた。




三つ年下である鉄朗くんとは、私の職場であるアクセサリーショップで出会った。立ち止まって悩む大きな猫背に「彼女さんへのプレゼントですか?」と声をかけた際、少々怖そうな見た目に反し「いえ、姉が誕生日で……」と答えた物腰が柔らかかったことは、そう古くない記憶として今も脳裏に残存する。

私が選出した品物をそのまま買って帰ってくれたこと。翌日、照れ笑いを引っさげて「すげー喜んでくれました」と、わざわざ報告に来てくれたこと。お礼がしたいって連絡先を聞かれた閉店間際の日曜だって覚えている。普段ならやんわり断るところ、言いづらそうにお伺いを立てる様があんまり可笑しくて、つい応じてしまったのだ。


直接的な言葉はない。敬語をやめたり、名前で呼び合ったり、頭を撫でてくれたり、家に来たり。距離は少しずつ縮まっているけれど、至って平行線を辿っている。それでもたぶん、そういうことなんだろうなあって分かってはいた。ただ踏み出せない。だって、こわい。

彼はまだ高校生。色んな可能性を秘めていて、これからたくさんの素敵な女性と出会っていく年齢。それに比べて私は、起きて出勤して帰って寝るだけの日々。限りある時間を無駄に消費している、くたびれた女でしかない。今は“年上のお姉さん”が新鮮なんだろうけれど、その内愛想を尽かされ見向きもされなくなるのが関の山。釣り合うだなんて、どうしても思えなかった。




少しだけ眠り、浮上していく意識とともに瞼を押し上げる。見慣れた天井。薄暗い室内。あったかい毛布。いつの間にか重ねられていた大きな手をきゅうっと握り返す。

気付いた鉄朗くんはスマホから顔を上げ、その眦をふ、とやわらげた。


「お目覚めですか、お嬢サマ」
「……なあに。執事ごっこ?」
「お、冴えてるね。悪くないだろ?」
「んー……勿体ないかな」
「勿体ない?」
「うん」


お嬢様でもお姫様でもない、ただの私には。

浮かんだ言葉を嚥下し、ごつごつした指の節を撫でる。乾燥しているのは暖房のせいか。一瞬波打った肌が愛おしい。そんなことさえ微細に拾う五感全部が憎らしい。この温もりも声も表情も、いずれ知らない誰かのものになる。


「なまえさん」
「ん?」
「何考えてんの」
「別に、何も」


笑おうとして、上手く口角が上がらないことに気付いた。どうやら病み上がりだとダメらしい。

仕方なく伏せた視界に、彼の手を引き寄せる。二回りくらいか。長さも感触も異なるそれを握り直せば、今度はしっかり握り返してくれた。「なあ」って呼ばれ、視線をゆるり。


「俺ってそんな頼りねえ?」


静かに落とされた低音に普段のようなおどけた調子はなく、確かな自嘲を孕んだ苦笑は初めて見る表情だった。


「なまえさんからしたら、やっぱ子どもだなって感じ?」
「全然、そんなこと、」
「じゃあどんな感じ?」


目付きの悪い三白眼。じ、と囚われてしまったが最後、ほんの少し息が詰まる。いつになく真面目なそれは、けれど根底を探らせてはくれないらしい。本当、ポーカーフェイスが上手で困る。どれだけ見つめ合っても、何一つ読み取れやしない。

まあ、良いタイミングかな。こわがってばかりの私に代わって踏み出してくれた今、それ相応にきちんとお答えした方がいいように思う。好きだよって。でも、不安がいっぱいあるんだよって。もちろん彼からの返事は保留でいい。そうすればきっと、今日時点でのさよならは免れる。次があるかは分からないけど。


「私の方が年下みたいって感じ。面倒見いいし、優しいし」


意外そうに見開かれた双眼へ苦笑する。繋いだままの手に額を当てて、せめてもの深呼吸。それから鉄朗くんがどれだけ素敵な男の子かってことだったり、好意や不安、劣等感なんかを全部吐露する。この関係が進むにしても切れるにしても、どうせ後々知れること。

途中、震えそうになった声は律した。離されない体温が、唯一救いだった。




ぼふんっ。黙って聞いていてくれた鉄朗くんがシーツに伏せる。「あー……」と唸る耳の赤さは、薄暗い室内でも窺えた。まさか褒められるとは思っていなかったらしい。何だかちょっと可愛く見えてトレードマークの寝癖頭を撫でてやれば、反対の手で阻止された。


「あの、なまえさん?」
「はーい?」
「真剣に話してくれたとこわりぃんだけど、すげー嬉しくて本当今何も考えらんねえから、これだけ聞いて」


年上だからとか関係なくて、なまえさんだから好きになったんで、その辺安心してクダサイ。

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